伯耆国 汗入郡

よどえじょう

淀江城

米子市淀江 淀江城

所在地

鳥取県米子市淀江町淀江

城 名

淀江城(よどえじょう)

別 名

淀井城(よどいじょう)…大山寺領とする記述。

 

与土井城(よどいじょう)…陰徳記、陰徳太平記での記述。

 

淀要害(よどようがい)

 

淀江ヶ要害(よどえがようがい)…大山寺僧慶政勧進簿での記載。

築城主

伯耆山名氏

築城年

不詳

廃城年

1571年(元亀2年)頃

 

1576年(天正4年)頃

形 態

平山城、山城(伝承より推定)

遺 構

不明(JR淀江駅や住宅地開発に伴う造成のため城の所在した薬師山は平削され消滅)

現 状

住宅地、道路、JR淀江駅舎、鉄道線路

備 考

史跡指定なし

縄張図

 

淀江城所在地推定図(汗入史網) ※米子市教育委員会 文化財課より転載許可

城 主

伯耆山名

伯耆民諺記に記述される城主。

伯耆山名氏に仕えた有力国人。伯耆民談記では城主とされる。

城 主

尼子

伯耆山名

大永の五月崩れで城を追われるが、尼子方に恭順し再び城主となる。(伯耆民談記)

大永の五月崩れ以降の城主とされる。(伯路紀草稿)

山中幸盛

尼子再興戦で一時入城と伝える。

参考資料(史料及び文献、郷土史など)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)(昭和35年3月 印伯文庫)

宇田川村史(大正4年9月 鳥取縣西伯郡宇田川村役場 足立正編)

汗入史網(昭和12年9月 国史研究部 本田皎)

日吉山王宮縁記

伯路紀草稿

大山寺僧慶政勧進簿(写)

淀江町史稿(門脇門治)

淀江町誌(昭和60年8月 淀江町)

年 表

不明

伯耆山名氏による築城と伝える。一説には簡素な砦が始まりとされている。

1524年

大永4年

尼子経久による伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)を受け落城する。

伯耆民諺記(古今国主統記の項)では山名守行、伯耆民談記では淀江福寿、伯路紀草稿では谷威安が城主であったとされる。

谷威安については日吉神社縁起書にも記述が見える。

1525年

大永5年

当地に要害が存在したとされる。(大山寺僧慶政勧進簿)

1535年

天文4年

大永5年に要害が存在したと記し伝える。(大山寺僧慶政勧進簿)

1561年

永禄4年

雲芸和議が結ばれた頃、伯耆国内で尼子方に与した国人の離反が相次ぎ毛利方の傘下へ移ったとされる。

1562年

永禄5年

11月、本城常光の粛清を発端に毛利氏に属した伯耆国人の離反が相次いでいる。

当城も尼子方へと与するが再び毛利方によって制圧されている。

1569年

永禄12年

山中幸盛らが尼子再興の軍を旗揚げする。

大山寺経悟院の支援を受けた伯耆国末吉城が毛利方を離反し、当城も伯耆国稲吉城と共に呼応すると再興軍の拠点(伯耆三城)のひとつとなっている。

1571年

元亀2年

西伯耆から尼子再興の勢力が一掃された頃、末吉城稲吉城、伯耆国寺内城の諸城と併せ廃城とされる。

1576年

天正4年

5月、山中幸盛ら尼子再興の勢力が因幡国若桜鬼ヶ城を放棄し因幡国より撤兵する。

尼子再興の勢力が伯耆・因幡両国から排除された頃の廃城とする説もある。

1901年

明治34年

薬師山は明治初期から次第にならされ明治34年に山地は崩れ姿を消したとある。(淀江町史稿)

1914年

大正3年

11月、停車場へ続く道を新設するため民家6戸を撤去したとある。(汗入史網)

概 略

かつて薬師山と呼ばれた丘陵に城砦が所在したと伝え、汗入史網では鉄道敷設前の薬師山を城跡と推定している。

伯耆民談記では尼子経久による侵攻(大永の五月崩れ)を受け落城する伯耆諸城のひとつとして登場する。

大山寺僧慶政勧進簿では1525年(大永5年)に要害が存在したと記されており、当地の重要拠点のひとつであったことが伺える。

尼子氏が伯耆国を領した頃は大山寺経悟院が治めており、その後も淀井(淀江)、末石(末吉)、稲石(稲吉)は大山寺領となっている。

 

1561年(永禄4年)、雲芸和議による影響とするか不明ながら当城は毛利方に属したとしている。

これまでは尼子方に与して大山寺経悟院が治めていた経緯があり、大山寺経悟院は1571年(元亀2年)2月の浄満原の戦いでも尼子氏を支援していることから表面的にのみ毛利方へ属した格好を取っていた状況が考えられる。

 

1561年(永禄4年)、尼子方の重臣であった本城常光の毛利方への降伏をきっかけに伯耆国内の国人衆の多くが毛利方へと与する。

 

1562年(永禄5年)、本城常光の武勇と度重なる寝返りを毛利氏に危険視されるなどしたため、本城常光らが粛清されたことが伯耆国内に伝わると尼子方から毛利方に与していた伯耆国人の多くが再び尼子方へ属する事態となった。

当城も毛利方より離反し尼子方へ属したとされるが、時を置かず再び毛利方によって攻略され毛利領となっている。

 

1571年(元亀2年)、山中幸盛による尼子再興の軍が興ると大山寺経悟院が領有していた当城、伯耆国末吉城、伯耆国稲吉城が尼子方へと呼応し、伯耆国内での再興軍拠点(伯耆三城)となっている。

 

廃城の時期は諸説あるが、いずれも尼子再興軍の撤兵を以ての廃城を伝える。

尼子再興軍の西伯耆からの撤退を以って廃城とする説では1571年(元亀2年)頃、伯耆、因幡両国からの撤退を以って廃城とする説では1576年(天正4年)頃としている。

 

伯耆民諺記(古今国主統記の項)では山名守行、伯耆民談記では淀江福寿、伯路紀草稿では谷威安を城主としており、尼子再興戦では一時山中幸盛が入城したとする伝承が見える。

 

淀江町史稿

御屋敷町に薬師山と称する一小山あり。(中略)頂上に薬師堂あり。本尊薬師如来は大永年中、谷若狭守威安(成安)の寄進に係れりと云う。堂は西面して結構荘厳を極め、一条の急硲ありて直に山下に通ず。而して其付近には御屋敷、御蔵屋敷、塚ノ堂、堀などの地名今に残れり。是れ蓋し当年の城墟なるべし。

 

明治時代に入ると薬師山は次第に成らされ、1901年(明治34年)までには城跡と併せて山地は姿を消したとしている。

現在も御屋敷、堀、塚ノ堂など城砦に由来すると考えられる字名が地名として残る。

写 真

2013年5月26日、2014年11月3日

稲荷神社先に所在したとする

遠望

稲荷神社からの遠望

遠望

薬師山は平削され宅地に

薬師山跡

城跡として紹介されるJR淀江駅

JR淀江駅

駅前大通り(旧停車場道)

駅前大通り

左が字御屋敷 右が字塚ノ堂

駅前大通り

字「御屋敷」周辺

字「御屋敷」

字「御屋敷」周辺

字「御屋敷」

字「塚ノ堂」へ

字「塚ノ堂」

字「塚ノ堂」は「堀町」「堀通り」とも

字「塚ノ堂」

字「塚ノ堂」周辺

字「塚ノ堂」

薬師寺小路

薬師寺小路

字「堀」周辺

字「堀」

字「堀」周辺

字「堀」

字「堀」の小路

字「堀」

西の宇田川

宇田川

旧国道9号

旧国道9号

稲荷小路

稲荷小路

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