伯耆国 日野郡
くろさか かがみやまじょう
黒坂鏡山城
所在地
鳥取県日野郡日野町黒坂
城 名
黒坂鏡山城(くろさか かがみやまじょう)
別 名
亀山城(かめやまじょう)…関一政が伊勢国亀山から移封されたことに因む呼称。
黒坂陣屋(くろさかじんや)…関一政の改易後に縮小され池田家の重臣、福田氏による自分手政治が行われた頃の呼称。
築城主
関一政
築城年
1612年(慶長17年)築城開始、1614年(慶長19年)完成。
1618年(元和4年)より黒坂陣屋へ縮小。
廃城年
1618年(元和4年)
形 態
平山城、陣屋
遺 構
土塁、郭、虎口、堀、井戸
現 状
山林、公園
備 考
史跡指定なし
縄張図
黒坂鏡山城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
城 主
関
関一政
日野郡5万石に相応しい城郭と城下町を新たに築いたとされる。
城 主
池田
福田
池田長政
関一政の改易後、黒坂の地を預かる。
福田久次
初代福田氏。
福田久重
二代目福田氏。
福田久隆
三代目福田氏。
福田久武
四代目福田氏。
福田久品
五代目福田氏。
福田久茂
六代目福田氏。
福田久命
七代目福田氏。
福田久寧
八代目福田氏。
福田久鎮
九代目福田氏。
福田久徴
十代目福田氏。
福田久就
十一代目福田氏。
山上半太夫
城奉行として代々世襲とする。
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻五 大正5年11月 佐伯元吉)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
黒坂開元記抄(江戸時代編纂 著者不明)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻上(大正3年1月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
因伯文庫 伯耆民談記(昭和35年3月 萩原直正校註)
因伯記要(明治40年5月 鳥取県)
日野町誌(昭和45年5月 日野町誌編纂委員会)
日野郡史(昭和47年4月 日野郡自治協会)
樵濯集(昭和48年7月 栗木尚謙)
黒坂歴史めぐり(平成23年3月 黒坂鏡山城を知ろう会)
年 表
1610年
慶長15年
伊勢国亀山の領主、関一政が日野郡5万石として入封となる。
日野郡入封当初は伯耆国亀井山城を居城としていたが、5万石の城下町に相応しい土地として当地を定め建設を進めたとされる。
1612年
慶長17年
関一政によって伯耆国黒坂城の麓に築城が開始される。同時に南北3筋、東西5筋の城下町整備も始められる。
1614年
慶長19年
当城が完成とある。高見山々頂の旧城(中世城郭部分)との連携は不明とする。
1617年
元和3年
家中不統一を理由に関氏は改易となり、高見山々頂の黒坂城は破却が行われたとする。(改易は翌年とする説も)
関氏の後任として池田長政が入城とある。
1618年
元和4年
鳥取藩池田氏の重臣、福田氏による自分手政治が行われる。
1618年~
元和4年~
廃城後は高見山の麓に陣屋が築かれ、城奉行の山上半太夫が置かれる。
陣屋は政庁としての機能を持ち、福田氏が11代、城奉行の山上半太夫も世襲により代々襲名し、明治初期まで黒坂を治めた。
概 略
1614年(慶長19年)、伊勢国亀山の領主であった関一政が伯耆国へと移封されたため、日野郡5万石に相応しい城郭として新たに建造された城砦とする。
新城が完成すると関一政から聖神社に対して毎年玄米三石五斗の寄付があったとしている。
聖神社は城砦から南方に鎮座しており、創建を不詳とするが一説には807年(大同2年)と推定している。(黒坂歴史めぐり)
樵濯集 伯州黒坂城物語(要約)
関長門守が伯州へと転封され、日野郡五万石に相応しい新城を築くため評議を重ねていた。
候補地として黒坂の他、生山には古城の跡も在りと聞き、見分のため軍役の長崎太郎左衛門、副士の小林唯四郎、今木七郎平衛、その他下役の面々を遣わした。
太郎左衛門は黒坂の地を推し、理由として生山は五万石の主将たる人物の住むべき処に非ずと評した。
樵濯集では関一政が新城を築くにあたって黒坂や生山など、どの地が相応しいかを配下に調べさせている。
長崎太郎左衛門らの見分結果から生山ではなく黒坂に藩庁が置かれることとなり、1612年(慶長17年)に築城開始し1614年 (慶長19年)に完成とされる。
1615年(元和元年)閏6月、幕府より一国一城令が発令され城郭の破城が行われたとするが、政庁として必要な機能は残されたと推定される。
因伯記要 名所舊跡 第七 日野郡 黒坂城の項
(略)慶長十五年、関氏嗣なきを以て家断つ。同年、池田光政の領地となる。寛永九年、池田光仲受封の後、家臣、福田丹波の保管に歸せり。関氏居城の際、町数七ありしと云ふ。
1617年 (元和3年)、家中の内紛を理由に関氏が改易されると池田氏の所領となり、池田光政の老中、池田下総守長政が黒坂の地を預かっている。
関氏の改易は翌年の1618年(元和4年)とする説も見える。
因伯記要には1610年(慶長15年)の改易としているが、中村家の改易と混同した記述と考えられる。
池田長政の頃より藩政は家老の福田氏が勤め、代々自分手政治により周辺を治めている。
1618年(元和4年)、政庁とする陣屋の改修が完了し、高見山の山城など不要な部分が破却されたとしている。
関一政が藩庁として完成させた頃より高見山の山頂に所在した伯耆国黒坂城の運用など詳細は不明。
1631年(寛永8年)、池田光仲の家臣、福田内膳正久重が城主の頃、大邦山常照院光西寺が建立されている。
現地では3度の類焼を受けていたことから境内地の移転が望まれ、暫定的に当城跡麓の堂屋敷に庫裡を建築し一部を本堂として使用したとある。
黒坂開元記抄(要約)
沢を埋め、近くの山を削り、高低を無くして平地とする。(略)此処に永城して天主二ノ丸ようよう成就致し四方に櫓を立てる。(略)
黒坂開元記抄では城郭の築城から完成までの概要が見える。
山を削った土砂で沢を埋め平地が造成されたとし、城様は天守と二ノ丸が一際目立ち、周囲は櫓(多門櫓や土壁)で囲まれた鉄壁の城砦であったとしている。
伯耆民談記 巻之二 都邑之部 一、黒坂
日野郡黒坂の郷にあり。古城を鏡山の城と云う。委しくは古城の巻に誌す。寛永九年、福田和泉正に預けられ、組の侍を置く事、八橋に準ず。
右の五カ所(米子、倉吉、松崎、八橋、黒坂)は当国都會の地にして市街戸々軒を並べて繁盛す。何れも数多の騎士在住して国中の鎮護たり。
1632年(寛永9年)、黒坂は福田和泉正へ任されたとあるが、初代の福田和泉守久次は1629年(寛永6年)に没しているため伯耆民談記の記述が一部誤りであることが判る。年号が正しければ二代の福田内膳正久重を示すと考えられ、和泉守と内膳正の混同が疑われる点から後世の加筆箇所とも推測される。
福田氏の知行となった以降は伯耆国内でも特に栄えた都市として五指に挙げられており、統治機構は八橋と同等であったとしている。
因伯記要 名所舊跡 第七 日野郡
(略)黒坂は旧藩陣屋の旧跡にして郡の中央に在り。人口千七百八十七。
1907年(明治40年)に刊行された因伯記要では黒坂の人口を1,787人としている。
写 真
2013年4月13日