伯耆古城図録

くろさかじょう

黒坂城

鳥取県日野郡日野町黒坂

別 名

鏡山城(かがみやまじょう)、亀山城(かめやまじょう)

遺 構

土塁、郭(腰郭、帯郭、連郭)、竪掘、虎口(平入、枡形)、井戸跡

現 状

山林

城 主

(名和方)日野義行日野義泰

※名和氏の一族。関係は親子。1332年(元弘2年)2月29日、船上山の戦いでは日野義行日野義泰親子は東坂で敵方の追撃部隊に対して名和基長と30余名で死守する。この手柄により日野義行は長門権守を給わる。

(日野山名方)日野義泰日野義行

※天正時代の武将で関係は兄弟。伯耆志でも混同するのは誤りとしている。

(関方)関一政

(池田氏)池田下総

築城年

不明

廃城年

不明

築城主

形 態

山城

備 考

史跡指定なし

参考文献

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻五 大正5年11月 佐伯元吉)

黒坂開元記抄(江戸時代編纂 著者不明)

因伯記要(明治40年5月 鳥取県)

復刻発刊 因伯記要(昭和56年1月 ㈱矢谷印刷)

日野町誌(昭和45年5月 日野町誌編纂委員会)

日野郡史(昭和47年4月 日野郡自治協会)

黒坂歴史めぐり(平成23年3月 黒坂鏡山城を知ろう会)

縄張図

黒坂城略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

天正年間(1573年~1593年)、日野義泰の居城と伝える。

日野義泰が上京の際、弟の日野義行が当城を奪ったとするが、後に足利氏の怒りに触れ自刃している。

 

伯耆志 黒坂村の条 古城の項

鏡山と号す。伯耆民談記に天正の昔、日野又三郎義泰是に居す。当時義泰公務の事ありて上京の間舎弟日野三郎義行反逆を企て当城を奪いけるが義泰帰国して一戦に及ぶといえども終に敗北して討死す。義行城主となるの後、京都将軍より其無道を罪して自刃を賜うと云えり。此日野氏は伯耆巻船上録等に出て元弘三年閏二月廿八日、名和長年、後醍醐天皇を船上山に奉ずるの時、即日着到の軍平の中に日野三郎義行其子又三郎義泰と見えたる是なり。然るを義泰義行天正年間云々の事とするは甚しき誤なり。按るに日野氏は古来当郡の豪族にして世々当城に在しか件の子孫、天正年間に及て云々の事ありしを件の二人の名のみ後人語伝うるによりて如此混乱せるなるべし(天正年間当地に在し日野氏は孰れならん詳ならず河東武庫村の神主船越氏もと日野氏にて其系譜を存す凡て日野氏の事船越氏の條に委しく云えり考合すべし)。民談記に又云天正中日野氏滅亡の後、毛利氏の指揮にて金持大和守景勝を当城に置くと云えるも亦妄談なり。当時金持し当郡に在る事なし。金持大和守景藤元弘三年、後醍醐天皇船上山より京都へ還幸の時の供奉たり。景勝を景藤と誤りて日野氏の次の城主と杜撰せるものなり(但、毛利氏当城の指揮せる事は有しなるべし。吉川広家天正十六年より慶長五年まで生山に居住す斯有は吉川氏生山に在て当城をも領したるにや)。慶長十五年七月十九日、関長門守一政、勢州亀山より転封せられて当国にて五万石を食し当城に移る(去年五月、故国主中村氏断絶せるによりてなり。土人の説関氏慶長三年亀山より当郡生山に移り同七年当城に移ると云えるは誤なり。但、生山より当城に移るの年数を以て本説の合考うるに慶長十五年まず生山村に着き後五年を経て同十九年当城に移れるなるべし)。元和三年、関氏嗣子なきによりて断絶す(黒坂開元記に長門守姪主馬と闘争の事ありて断絶すといえり)。当年備前の芳烈公因伯に受封有て其臣池田下総を当城に居せしめらる後、寛永九年興禪公受封の後、本藩福田氏当地を領し当城を預かる。

 

因伯記要 名所舊跡 第七 日野郡 黒坂城の項

日野郡黒坂にあり。鏡山城と號す。天正中、日野義泰の居城たり。義泰上京の暇に乗し弟、義行奪て之に居る。後、足利氏義行か罪を責め自殺せしむ。毛利氏の時に及て吉川氏の領する所となる(略)

 

毛利氏の頃は吉川氏が領有したと因伯記要に記述が見える。

築城時期は不明とするが中世、或いはそれ以前からの築城と推定されている。

 

伯耆国内の山城は簡素な縄張の城砦が多いが当城には土塁、虎口(平入、枡形)、竪掘、川濠、櫓台など防御施設が充実しており、縄張についても堅牢な配置が施されていることから相当な築城技術を持った一族(日野山名氏)の領有が推測されている。

残存する遺構の形状や配置についても日野山名氏による築城と伝わる城砦と似た構造が見え、当城に関する伝承にも日野山名氏による築城が伝えられている。

 

特に北の谷を利用した竪掘は伯耆国米子城に見える堀状の遺構(浄昌寺に対する横堀)と構造がよく似ており、米子城飯山城)の築城も日野山名氏山名宗幸によるものとすることから僅かながら関連が推測される。

 

年 表

不明

室町~戦国時代、日野山名氏による築城とされる。

地 図

 

写 真

訪城日 2019/01/22、2019/02/02

北側からの遠望

黒坂陣屋からの眺め

西~北側の麓は川濠が巡る

北側麓の川濠

北の大竪掘

北の大竪掘(麓から)

大竪掘(中腹)

大竪掘(中腹の段差と平坦地)

大竪掘(中腹の段差を下から)

大竪掘の先は主郭の西土塁

大竪掘(西の連郭から)

大竪掘の西側連郭

大竪掘の西側連郭

大竪掘の西側連郭(主郭西腰郭)

連郭から西側の小竪掘

連郭から西側の小竪掘

連郭から西側の小竪掘

小竪掘(麓から)

大竪掘の東側連郭

大竪掘の東側連郭

大竪掘の東側連郭

大竪掘の東側連郭

主郭北側の竪掘

主郭北側の竪掘

大竪掘から主郭の土塁

主郭

主郭

主郭の土塁(東側)

主郭の土塁(西側)

主郭の土塁(西側から南側)

主郭の土塁(南側)

主郭南側の両脇の土塁

主郭南側の両脇の土塁

主郭南側の土塁と平入虎口

主郭南側の土塁と平入虎口

主郭南側一段下郭の枡形虎口

主郭南側一段下郭

主郭南側一段下郭

主郭南側一段下郭

主郭南側一段下の郭の井戸跡

主郭南側一段下郭の腰郭(北)

主郭南側一段下郭の虎口付近破城痕

主郭南側一段下郭の平入虎口

主郭南側一段下郭の平入虎口

主郭南側二段下郭の破城痕

主郭南側二段下郭の土塁(南)

主郭南側二段下郭の土塁(南)

南櫓台から南西郭群の遠望

南西郭群の遠望

南櫓台

南櫓台

南櫓台

南櫓台

南櫓台

南櫓台の破城痕

南櫓台の腰郭

主郭南側二段下郭の腰郭(南)

主郭南側二段下郭の腰郭と土塁(東)

主郭南側二段下郭の腰郭

主郭南側二段下郭の腰郭

主郭南側二段下郭の腰郭

主郭南側二段下郭の腰郭と土塁(西)

主郭から北側一段下郭へ

主郭北側一段下郭

主郭北側一段下郭から城下の眺め

主郭北側一段下郭の土塁と虎口(南)

主郭北側一段下郭の土塁と虎口(南)

主郭北側一段下郭の土塁(東)

主郭北側一段下郭の腰郭(東)

主郭北側一段下郭の破城痕

鏡山城への山下道

鏡山城への山下道

主郭から北端の郭へ

北端の郭へは急斜面

急斜面の高低差

北端郭の土塁と平入虎口

北端郭の土塁と平入虎口

北端郭から主郭方面

北の谷部の平場

北谷部の平場の切岸

平場から主郭方面

平場から主郭北側の竪掘に繋がる

主郭北側の竪掘(麓から)

主郭北側の竪掘(麓から)

主郭北側の竪掘(主郭から)

北端郭西側の切岸

北端郭東側の切岸

北の麓の郭跡

南端の郭跡

南端の郭跡から鏡山城への道

南竪掘群付近の帯郭(農道)

南竪掘群付近の帯郭(農道)

南竪掘群付近の帯郭(農道)

南の竪掘(東)

南の竪掘(中央)

南の竪掘(西)

南の竪掘群(遠景)

南西からの遠景

聖神社

聖神社

聖神社の本殿

聖神社

光明寺

光明寺横に案内板と道

写 真

訪城日 2013/4/13

東側(JR黒坂駅)からの遠望

東側からの遠望

東側からの遠望

主郭

聖神社側からの遊歩道(黒坂陣屋へ)

黒坂陣屋南側の郭跡

黒坂陣屋南側の郭跡

聖神社

聖神社

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