武将列伝帖

なわ ほうきのかみ ながとし

名和伯耆守長年

【氏】【姓】朝臣【名】名和【通称】又太郎【諱】長年

別 名

村上又太郎長高(むらかみ またたろう ながたか)

長田又太郎左衛門尉(ながた またたろう さえもんのじょう)

名和長高(なわ ながたか)

出 身

不明

官 途

伯耆守(従五位下)、東市正(正六位上)

所 属

名和氏(南朝)

生 年

不明

没 年

1336年8月7日(延元元年/建武3年6月30日)

 

- 列 伝 -

源師房または源雅兼の子孫を称した村上氏の一族、源行明の孫である長田行高の嫡男。

建武の新政下では楠木正成結城親光千種忠顕と並び「三木一草の功臣」と評され重用された。

また武勇に関しても剛弓の名手であり、五人張りの強弓を引き一矢で二人の敵兵を射抜いたとされる。

 

1331年(元弘元年)、鎌倉幕府の討幕計画が露見し隠岐島へ流罪となっていた後醍醐天皇が1333年(元弘3年/正慶2年)2月に隠岐島を脱出し、名和湊に到着した事を知ると船上山に迎えている。

同年3月3日、後醍醐天皇は宴席を設けて伯耆守に任じられている。(因伯紀要)

異説に同年3月3日は鎌倉幕府方の佐々木清高が伯耆国小波城を接収しており、後日の船上山の戦いで幕府軍に勝利した戦功により伯耆守へ任じられたとしている。

小波城に籠城した佐々木清高は六波羅探題へ援軍を求めるが、弟の長田氏高が周辺武士の旗印を偽装した百旗の旗を用意し、偽装した兵で囲み牽制している。

一族の長田行氏長田信貞が城内へと放火をしかけ小波城を陥落させている。

船上山の挙兵までは村上長高と称していたが、後醍醐天皇曰く「長くて高いのは危険なことではないか」との御言葉から長年の名を贈られ改名したとされる。

 

船上山の合戦に続き、伯耆国守護代、糟屋重行の籠る伯耆国中山城を攻め落とし、小鴨氏の籠る小鴨城も陥落させている。

 

1333年(元弘3年/正慶2年)5月、足利尊氏赤松則村と呼応し鎌倉幕府に反旗を翻すと六波羅探題を攻略し京を制圧。

同月22日、新田義貞によって鎌倉幕府は滅亡している。

六波羅探題滅亡後は後醍醐天皇の京への帰洛に護衛として随行している。

 

後醍醐天皇による建武の新政においては従四位下の位に叙せられ、併せて京の左京の市を管轄する東市正に任じられると記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人も務め、帆掛船の家紋を与えられた。

北条氏の残党と結んだ幕府派の公卿・西園寺公宗を逮捕すると出雲国への配流中に謀殺し、足利尊氏と対立していた護良親王結城親光と共に捕縛するなど天皇近侍の将として忠勤に励んだ。

 

1335年(建武2年)、足利尊氏が反旗を翻し京への進軍を開始すると、楠木正成新田義貞らと京を防衛するために出陣。

 

1336年(建武3年/延元元年)1月、山崎方面を突破され一時的に足利軍に京を奪われると後醍醐天皇も比叡山まで退くが、奥州から北畠顕家の増援を得て京の奪回に成功している。

同年2月、足利尊氏を九州まで追いやるが、多々良浜の戦いで菊地氏を破り九州を制圧した足利軍が反攻を開始。

同年4月、水路・陸路の二方面から東上を開始。

同年5月、湊川の戦いでは平安京の大内裏跡地において防戦を行う。

同年6月30日、三条猪隈付近で討死したと云われる。

 

御首は家臣の荒松氏が伯耆へ持ち帰ったとされる。

 

1886年(明治19年)には正三位、1935年(昭和10年)には従一位を追贈され、位官は従四位下となった。(贈正三位、贈従一位)

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