武将列伝帖

ささき おきのかみ きよたか

佐々木隠岐守清高

【氏】【姓】朝臣【名】佐々木【通称】隠岐守【諱】清高

別 名

出 身

不明

官 途

左衛門尉、隠岐守

所 属

佐々木氏

生 年

1295年(永仁3年)

没 年

1333年6月20日(元弘3年/正慶2年5月9日)

 

- 列 伝 -

鎌倉時代末期の武将。宇多源氏流佐々木氏の一族で隠岐守護。『太平記』では隠岐判官。

父は佐々木宗清、母は佐々木宗綱の娘。子に佐々木泰高佐々木重清

 

1332年(元弘2年/正慶元年)、倒幕計画(元弘の変)を企てた後醍醐天皇らは捕らえられ、隠岐へ配流されると黒木御所に一行を幽閉。

当時、西日本を中心に討幕運動・反幕府活動を行っていた武士達(悪党)による後醍醐天皇の奪還を警戒し黒木御所を厳重に監視している。

 

1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇らが黒木御所から姿を消し、隠岐を脱出すると名和長年に迎えられ、船上山にて挙兵している。

同年3月3日、官軍を率いて伯耆国へ向かうと佐々木能登守清秋の800騎を赤碕へ、自身は2,000騎を以て大石橋五郎左衛門の籠もる伯耆国小波城を襲撃し、陣城として接収している。

陣容を整え隠岐の手勢を率いて船上山へ攻め寄せるが、佐々木昌綱が流れ矢を受け戦死、佐々木定宗は降伏し、同族の出雲守護、塩冶高貞も敵方へ内通するなど諸将の離反が相次いでいた。

諸将の寝返りに気付かず、味方が伯耆国船上山城に迫っているものと誤認したまま進軍を行うが道中で暴風雨に見舞われ、風雨を凌ぐために隠れた木陰で名和方の軍勢に奇襲を受け多大な損害を出している。

名和方に対し10倍以上の兵力(小波城に入った軍勢を2,000騎としている)で攻めるも船上山を攻略することは叶わず撤退を余儀なくされ、敗走した手勢700余騎をまとめて小波城まで退き、昼の野戦では名和方の追撃を打ち破るが、同日の夜襲で焼討を受けると支えきれず城を放棄し隠岐へと逃れた。

 

同年5月9日、敗戦の責任から隠岐を追われ、出雲国から若狭国、越前国へと落ち延びるが最期は近江番場の蓮華寺にて六波羅探題の北条仲時らと共に自害。享年39。

子の佐々木泰高も共に自害したと伝えられる。

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