所 属

大石橋

よみがな

人物名

おおいしばし ごろう さえもんのじょう すけとき

大石橋五郎左衛門尉資時

三輪神社棟札

 

別 名

おおいしばし ごろう さえもんのじょう たいらのすけとき

大石橋五良左衛門尉平資時

三輪神社棟札の表記

 

別 名

おおいしばし ごろうざえもん

大石橋五郎左衛門

伯耆志、群書類従での表記

官 途

左衛門尉(三輪神社棟札)

出身地

会見郡中間庄(中間荘)

生 年

不詳

没 年

1333年(元弘3年/正慶2年)

朝臣

資時

列 伝

元徳年間(1330年頃)に伯耆国小波城の城主と伝える。(三輪神社棟札)

一族の大石橋氏は鎌倉時代頃より会見郡中間荘の地頭職を務めたとされる。

 

三輪神社棟札(元徳二年霜月三日)

(裏面)

當城 大石橋五良郎左衛門尉平資時

神主 石隈太郎太夫紀正盛

本願 宮地三良兵衛尉源貞政

社僧 社人 氏子 中

 

1330年12月13日(元徳2年11月3日)付

大三輪大明神(三輪神社)に棟札を奉納しており、平姓であったことが判る。(三輪神社棟札裏面)

 

伯耆志 小波村の条 城跡の項

三輪山の西に在りて字を大名屋敷と呼ぶ。元弘の頃、大石橋五郎左衛門の居城なりしと云う。其南にハサマと呼ぶ地あり。狭間平五郎と云いし人の構えし跡なりと伝えり。伝詳ならず。馬場射場の跡あり。城跡空堀松樹繁茂すと云えども彷彿に往昔を見るべし。又、福田原と呼ぶ地に五輪塔あり。前年此地にて骸骨及び釼を掘出せしと云う。

 

1333年4月17日(元弘3年3月3日 / 正慶2年3月3日)

鎌倉幕府軍の佐々木清高によって小波城が攻撃を受けたとある。

佐々木清高は名和方の立て籠もる船上山に対する陣城として小波城の接収を意図したとしている。

幕府方の攻撃に対して籠城戦を構えたが、包囲された後に放火、焼討を受け落城を伝える。

 

この戦いの後、大石橋氏の一族に関係する記述の一切が途切れる。

戦闘での討死、戦後の処断など仔細不詳であるが、三輪神社周辺には大石橋氏の一族や家臣らを祀ったと伝える五輪塔が存在しており、三輪神社には小波城の城主であった大石橋氏の遺物とする金梨子地塗の鞍が伝えられている。

Page Top