所 属

大石橋

よみがな

氏族名

おおいしばし し

大石橋氏

官 途

出身地

会見郡中間庄(中間荘)

生 年

没 年

不詳

不詳

列 伝

鎌倉時代、会見郡中間庄の地頭職とされる一族。

伯耆国小波城を居城とし、周辺の統治を行ったとしている。

 

元徳年間(1330年頃)には小波城の城主として一族の大石橋五郎左衛門の名が見える。

 

1333年4月17日(元弘3年3月3日 / 正慶2年3月3日)

家城の小波城は鎌倉幕府軍を率いた佐々木清高の攻撃を受けている。

籠城の構えを見せるが幕府方によって包囲され、焼討を受け落城したと伝える。

佐々木清高が船上山の戦いに備え陣城として接収することが目的とされることから小波城は幕府方に与しない勢力であったと考えられる。

 

名和氏の配下には中間藤七郎が居り、重用されていたことから中間庄が名和氏に近い勢力基盤であったと推測されるが、一族が明確に名和氏に与していたとする記述も見られない。

小波城の戦いの後は一族に関する記述の一切が途切れるため、この合戦に於いて一族は滅亡したと推測される。

三輪神社に一族やその家臣らを祀ったと伝える五輪塔が存在している。

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