伯耆国 会見郡
こなみじょう
小波城
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
群書類従(伯耆之巻)
続群書類従(異本伯耆巻)
因伯記要(明治40年5月 鳥取県)
復刻発刊 因伯記要(昭和56年1月 ㈱矢谷印刷所)
三輪神社沿革誌
尾高の里(昭和52年8月 野口 徳正)
尾高の里Ⅱ(昭和52年8月 野口徳正)
淀江町誌(昭和60年8月 淀江町)
年 表
1275年
建治元年
この頃、伯耆国の守護所が置かれたとする。
1330年頃
元徳年間
蒙古襲来に備えて日本海側に築城された海城群とされる。
この頃から元弘の頃にかけては在地の地侍、大石橋五郎左衛門が城主であったと伝える。
1333年
元弘3年 / 正慶2年
3月3日、隠岐より脱出した後醍醐天皇討伐のため鎌倉幕府軍の精兵2,000騎を従え佐々木清高が入城とする。
それまで城主であった大石橋五郎左衛門や一族の動向は不明となる。
大石橋五郎左衛門は幕府側の文書に記述が見えないことから当地で独立を保った地侍であったと考えられ、佐々木清高の入城に抵抗するが幕府軍の攻撃(焼討とある)によって落城、大石橋氏の一族も排除されたと推測され、三輪神社も戦闘の際の焼討を受け焼失し多数の古文書が失われたとする。
最終的に船上山の戦いに備える陣城として幕府軍に接収される形となっている。
4月24日(閏2月29日)、船上山の戦いが始まる。
幕府軍は船上山へ向け出陣するが名和方の迎撃に遭い敗走し、佐々木清高は敗残兵700余名を率い当城まで退却している。
佐々木清高は軍勢を立て直すと城に籠もって抗戦し、白昼の迎撃戦では追撃してきた名和方の軍勢を退けている。
同日夜半、名和方の夜襲により四方を包囲された後、松明を投げ込まれるなど焼討を受けている。
幕府軍は名和方の攻勢に堪えきれず、佐々木清高は城を捨てると息子と共に隠岐へと一艘の小舟で逃げ帰ったとある。(群書類従・続群書類従)
この時の夜襲では名和方の軍勢に伯耆相見氏の祖とする巨勢宗国が加わっていたとしている。(尾高の里Ⅱ)
焼討を受け落城した後はそのまま廃城と伝わる。
概 略
城の正確な場所、城域の範囲や規模について特定されていないが、太平記の舞台として文献に名称が見える。
伯耆之巻では佐々木昌綱の居城としている。
1275年(建治元年)頃に伯耆国の守護所が置かれ、鎌倉時代には中間荘の地頭職であった大石橋氏の居館が所在したとされる。
周辺に点在する古墳群、字「上三輪山」に所在する百人塚の存在から往古は栄えていたことが伺える。
伯耆之巻では元弘年間(1331年~1334年)、隠岐を脱出した後醍醐天皇を擁する名和方と鎌倉幕府方との戦い(船上山の戦い)に於いて、幕府方が陣城として接収したとする記述が見える。
幕府方の佐々木清高は2,000騎を従え小波へ入ったとしている。
伯耆志 小波村の条 城跡の項
三輪山の西に在りて字を大名屋敷と呼ぶ。元弘の頃、大石橋五郎左衛門の居城なりしと云ふ。其南にハサマと呼ぶ地あり。狭間平五郎と云いし人の構えし跡なりと伝えり。伝詳ならず。馬場射場の跡あり。城跡空堀松樹繁茂すと云えとも彷彿に往昔を見るべし。又、福田原と呼ぶ地に五輪塔あり。前年此地にて骸骨及び釼を掘出せしと云ふ。
城の所在地に関しては諸説あり、
・旧三輪神社の鎮座した三輪山西側の丘陵先端(字「下原田」※旧字は「大名屋敷」)とする説。
・字上ヶ津(通称アゲ畑)の南側(字「狭間谷」の南側、字「狭間屋敷」付近)とする説。
以上の2説が諸説の中でも有力とされている。
群書類従(伯耆之巻)では船上山の戦いで敗走した佐々木清高の軍勢700騎余りが当城に立て篭もり抗戦したと記述に見えることから城郭の規模は広大な範囲に及んだと推測できる。
当城は蒙古襲来に備えて築城された城砦群のひとつとも推測され、同時期に建造された日本海側の諸海城(伯耆国末吉城、伯耆国福尾城、伯耆国富長城、伯耆国長野城など)を統括した城とする説の他、伯耆国尾高城の支城とする説もある。
※鎌倉時代頃の尾高城が支城を持つ程の規模であったとするかは不明。
城主に名が見える大石橋五郎左衛門についても不明な点が多い。
幕府方の文書に詳細が見えず、名和氏との交流を示す記述も見当たらないことから当地で独立を保った地侍と考えられる。
幕府方の佐々木清高によって当城を接収された前後の大石橋氏一族の動向についても不明であるが、大石橋五郎左衛門の墓とされる五輪塔、今宮さん(大石橋氏の次男)、若宮さん(大石橋氏の末子)を祀った祠など周辺には大石橋氏を祀ったとする痕跡や伝承、言い伝えが残る。
写 真
2013年5月26日、2014年8月17日