伯耆古城図録

ながのじょう

長野城

鳥取県西伯郡大山町豊成(小字長野屋敷)

別 名

遺 構

郭跡、土塁、空堀、切岸、土橋

現 状

山林、畑地、原野

城 主

不明

築城年

1274年(文永11年)以降

廃城年

不明

築城主

不明

形 態

丘城・海城

備 考

史跡指定なし

参考文献

大山町誌(昭和55年10月 大山町誌編さん委員会)

続大山町誌(平成22年9月 大山町誌編集委員会)

長野城跡発掘調査報告書(平成29年度実施分)(2019年3月 大山町教育委員会)

縄張図

長野城略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

城砦に関する詳細は不明。

立地条件や縄張から元寇(1274年(文永11年)の文永の役、1281年(弘安4年)の弘安の役と二度にわたる蒙古襲来)に対する海岸線の防衛拠点として伯耆国富長城、伯耆国福尾城、伯耆国末吉城、伯耆国箆津城などと同時期に築城された城砦と考えられている。

 

縄張図では単郭で簡素な表記になっているが、主郭の南側~西側にかけて土塁が配され、主郭の北側は連郭となって日本海側まで連なる。

 

2018年(平成30年)3月には道路整備のため、主郭南側土塁周辺の発掘調査が行われ、当城の所在時期などが調査され、土塁上には防柵が備えられた形跡や焼き米など発見されている。 (縄張図も最新版となり詳細に描かれている)

 

年 表

文永年間~弘安年間

1274年(文永11年)の文永の役、1281年(弘安4年)の弘安の役、二度にわたる蒙古襲来の脅威から、元寇に対する海岸線の防衛拠点として築城された一城と推測されている。

地 図

 

写 真

訪城日 2018/3/10~3/12

西側からの遠望

西側からの遠望

東側からの遠望

東側からの遠望

北側の谷部

北側からの遠望

北側からの遠望

北西側からの遠望

北の断崖から日本海

北の断崖から日本海

北の断崖から日本海

南側の土塁の様子(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁の地層(発掘作業中)

南側の土塁から焼米(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁(発掘作業中)

南側の土塁から主郭

南側の土塁から主郭

中央空堀

中央空堀

中央空堀

中央空堀の石置き場

主郭南側

主郭南側

主郭南側

主郭南側

主郭南側

主郭南側

主郭南側

主郭南側

主郭南側

主郭南側

主郭南側

主郭北側は連郭

主郭北側

主郭北側

主郭北側

主郭北側

主郭北側

主郭北側から谷部

北東の郭跡

北東の郭跡

北東の郭跡

北東の郭跡

北東の郭跡

北東の郭跡

西の郭跡

西の郭跡

西の郭跡から日本海

西の郭跡の土塁

西の郭跡の土塁の礎石

西端の川濠

西端の川濠

西の船着場

西の船着場

日本海側岸壁周辺

日本海側岸壁周辺

日本海側岸壁周辺

木ノ根神社の境内

木ノ根神社の境内

木ノ根神社の境内

木ノ根神社の境内

甫登神社の鳥居

甫登神社

甫登神社

甫登神社

写 真

訪城日 2013/7/18

北西からの遠景

東側からの遠景

日本海の眺め

中央空堀の入口

南側の土塁

南側の土塁の礎石

南側の土塁の礎石

中央空堀への入口

中央空堀

中央空堀

東側方形郭跡

東側方形郭跡

東側方形郭跡

主郭南側の土塁(東側)

主郭南側の土塁(南側)

主郭南側の土塁(南側)

主郭南側の土塁(南側)

主郭南側

主郭南側

主郭南側の土橋

主郭南側の土橋

主郭北側

主郭北側

主郭の土塁

北側の断崖

北側の断崖

西側の土塁

西側の土塁

西側船着場の祠

西側船着場の祠

木ノ根神社鳥居

木ノ根神社の鳥居

木ノ根神社案内板

木ノ根神社案内板

木ノ根神社境内

東側の古墳跡

東側の古墳跡

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