伯耆国 汗入郡
ふくおじょう
福尾城

所在地
鳥取県西伯郡大山町福尾
注意点
城域は全て個人所有地です。所有者の許可無く登城はされないようお願いします。
城 名
ふくおじょう
福尾城
福尾村の所在に因む
別 名
はやなせのしろ
端八橋郡城
中務大輔家久公御上京日記から推測
築城主
不詳
築城年
1274年(文永11年)以降
廃城年
不詳(1575年(天正3年)以降か)
形 態
平山城、海城
遺 構
郭跡※、空堀※、土橋、堀切
※ 郭跡は畑地へと転用
※ 東側の空堀は山下通路に転用
現 状
畑地、宅地
備 考
史跡指定なし
縄張図
福尾城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編))※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
中務大輔家久公御上京日記(天正3年6月21日)
大山町誌(昭和55年10月 大山町誌編さん委員会)
続大山町誌(平成22年9月 大山町誌編集委員会)
淀江風土記(1989年 淀江町)
年 表
1274年
文永11年
文永の役による蒙古襲来。
1281年
弘安4年
弘安の役による蒙古襲来。
二度に渡る蒙古襲来の脅威から元寇に対する海岸線の防衛拠点として築城されたひとつと推測されている。
戦国時代
城山(じょやま)に某城の出城として城砦が所在したと伝え、地元の伝承では新谷能登守の居城とされる。
1575年
天正3年
7月28日(旧暦6月21日)
島津家久が伊勢参詣の道中に城下を通過した可能性がある。(中務大輔家久公御上京日記)
概 略
福尾集落では「城山(じょやま)」と呼ばれる山に城砦が所在したとされ、堀跡、上屋敷(かみやしき)の地名が残る。
続大山町誌では新谷能登守の居城跡としている。
元寇(1274年(文永11年)の文永の役、1281年(弘安4年)の弘安の役と二度にわたる蒙古襲来)に対する海岸線の防衛拠点として伯耆国富長城、伯耆国長野城、伯耆国末吉城、伯耆国箆津城などと同時期に築城された城砦と考えられている。(大山町誌、淀江風土記)
地元の伝承では某城(伯耆国小波城)の支城(出城)とされる話が伝わっていた。
地名となっている福尾の「福」の字には中国が秦の時代、不老不死の薬を求め日本に流れ着いたと伝える「徐福」伝説に因む伝承も残る。
中務大輔家久公御上京日記(天正三年六月十九日)
十九日、夜中に打立候て、阿越や之町を通、水無瀬といへる処より舟にて伯耆乃円、大つかといへる処に舟つけ、その町又九郎といへるものの処へ一宿。
中務大輔家久公御上京日記(天正三年六月二十日)
廿日、朝立ば、やなせといへる城あり。その町を通行に芸州衆浅猪那信濃といへるに行合候へば(略)
島津又七郎家久の伊勢参詣道中記を記した「中務大輔家久公御上京日記」には当城を示す可能性を伺わせる記述が見える。
1575年7月26日(天正3年6月19日)
阿越や(青谷)の町を通り水無瀬の湊から伯耆国へと向かい、「大つか」の町で又九郎の屋敷で一泊している。
1575年7月27日(天正3年6月20日)
早朝に「大つか」を出発し、伯耆国八橋城の城下を通る。
この時、浅猪那信濃より旅費の足しにとわらじ銭を渡されている。
それから「はた」(羽田井か)を通り大山を目指すが虫気(腹痛)のため来た道を引き返しており、療養のため九郎左衛門の屋敷で一泊する。
中務大輔家久公御上京日記(天正3年6月21日)
廿一日、打立、未刻に文光坊といへるに立寄やすらひ軈て大仙へ參、其より行て緒高といへる城あり。その町を歩通、よなこといへる町に着。豫三郎といへるものの所に一宿。
1575年7月28日(天正3年6月21日)
未明に九郎左衛門の屋敷を出発し、文光坊に立ち寄った後に大山参りを行っている。
大山を参った後は伯耆国尾高城の城下を過ぎ、米子の町で一泊とある。
島津一行が上陸した「大つか」の湊は「大山町大塚」或いは「琴浦町逢束」の何れかと想定される。
・「琴浦町逢束」を起点とした場合
逢束➡八橋➡羽田井➡八橋(或いは逢束)➡羽田井➡大山➡尾高➡米子
・「大山町大塚」を起点とした場合
大塚➡はやなせ(当城、伯耆国富長城或いは伯耆国石井垣城か)➡はた(坊領)➡はやなせ➡はた(坊領)➡大山➡尾高➡米子
地名を頼る場合、「大つか」を「琴浦町逢束」とするルートが自然と考えられる。
この頃、八橋周辺は毛利方の領有であり、八橋の町で出合う浅猪那信濃も芸州衆とされることから毛利方に近い人物であったと考えられ、道中に出合う人物も大山寺に縁があると考えられる人物が多く登場する。
大山への参拝が目的であれば坊領道を利用するのが安全だが、八橋から続く坊領道はなく、「はた」を通った理由は羽田井が大山侍の領地であったことから参拝者にとって一定の安全が担保できたからと推測される。
参拝の帰りも尾高道を使っていることから道中の安全は常に意識していたと考えられる。
原文の「朝立はやなせといへる城あり」は「朝、宿を出ると(地元民が)八橋と呼ぶ城があった」と、初見の人物が記したと推測されることからも「琴浦町逢束」を起点としたルートであったと強く考えられる。
「大つか」を「大山町大塚」とする場合、いくつか怪しい点も出てくるが可能性は残る。
先ずは湊付近に所在したとする町の存在だが、当城か富長城が想定される。
原文の「朝立はやなせといへる城あり」を「朝立、はやなせといへる城」とし、「はやなせの城」の特定が必要となる。
➡「端八橋の城」として、八橋郡の端に位置する城とする場合
「八橋(やなせ)の端(は)の城」と解釈し、伯耆国石井垣城を示す可能性もあるが、大塚湊からの距離はあまりにも遠く、虫気のため来た道を引き返したとするにはやや疑問が残る。
➡「はやなせ」を八橋から遠く離れた場所とする意味の場合
日記の筆者が八橋の位置を基準に考えていたとする必要があり、大塚へは逢束と間違えて訪れた可能性もある。
大塚湊を起点とした場合、当城か伯耆国富長城の城下に一泊し、坊領道を利用できる利点がある。
「朝立はやなせといへる城あり」を「はやなせの城」とするか、「やなせの城」とするかで判断も変化するが、京都から九州への帰路を意識した場合、「琴浦町逢束」説の方が自然であるため、当城を「はやなせの城」とするかは可能性のひとつとして続報を待つ。
写 真
2013年12月1日





















