所 属

巨勢

名和

巨勢

よみがな

人物名

こせ ごろう さえもんのじょう むねくに

巨勢五郎左衛門尉宗国

 

別 名

あいみ ごろう さえもんのじょう そうこく

相見五郎左衛門尉宗国

八幡相見氏の祖とする

 

別 名

あいみ さえもんたいふ にゅうどう

相見左衛門太夫入道

正平6年頃、入道を号する

 

別 名

あいみ さえもんごろう

相見左衛門五郎

八幡宮の神主とする

官 途

左衛門尉

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

朝臣

宗国

列 伝

相見氏の祖と伝える人物。

八幡神社の社記(鳥取県神社誌)には八幡神社(八幡宮)の神主と伝えている。

現存する綸旨及び寄進状には但馬国土田一分、亀別宮、美作国靑倉庄の地頭職を与えられていたことが記されている。

 

相見家文書(元弘三年三月四日 左近中将)

巨勢宗国依有合戦忠可有恩賞矣

元弘三年三月四日 左近中将(花押)

 

1333年(元弘3年/正慶2年)

船上山の戦いでは子の巨勢家盛と共に後醍醐天皇方へ与力し、戦場に於いて格別の戦功を挙げたと伝える。

 

1333年4月18日(元弘3年3月4日/正慶2年3月4日)

後醍醐天皇より直筆の感状(綸旨)を賜る。

差出人は左近中将千草忠顕としているが、後醍醐天皇による直筆と伝えられている。

 

伯耆志 馬場村の条

但馬国土田一分地頭職依勲功之賞巨勢家咸可令知行者

綸旨如此悉之

元弘三年五月五日 勘解由次官(判)

 

(試説)右第一

(略)巨勢氏即相見氏なり。第四の綸旨に相見五郎左衛門尉宗国と見え、第七の下知状に巨勢宗国とあり(箕浦八幡村の下を見合すべし)咸は盛の誤なるべし。元弘三年五月は後醍醐天皇船上山行在の御時なり(光巌院天皇正慶二年) 然れば巨勢氏当時名和氏に輿力せし者なるべし。勘解由次官は行在より京都へ還幸の時供奉の中に勘解由次官藤原光守あり

 

伯耆志 馬場村の条

但馬国亀別宮地頭職依勲功之賞巨勢家咸可令知行者

綸旨如此悉之

元弘三年五月五日 勘解由次官(判)

 

(試説)右第二

亀別宮と云う處も所見なし

 

1333年6月17日(元弘3年5月5日/正慶2年5月5日)

綸旨では巨勢家盛に対して但馬国土田一分及び但馬国亀別宮の地頭職が与えられている。

試説では名和長年に与した人物としている。(伯耆志)

 

伯耆志 馬場村の条

美作国靑倉庄地頭職為勲功賞相見五郎左衛門尉宗国可令知行者

天気如此悉之御状

興国元年十月十七日 右少辨(判)

 

(試説)右第四

(略)此時既に但馬の所領は北朝の武士に没収せられしが故に更に此地を賜うなるべし。抑上の時氏が寄進は所領を割て社に附しなり。三度の綸旨は勲功に因て朝廷より相見氏に賜わる處なり。然れば彼比び遠境に在ても猶南方に與力し奉りし事と見えて嘆美するに餘りあり。(略)右少辨詳ならず。

 

1338年(建武5年6月/延元3年6月)

山名時氏から八幡神社(八幡宮)へ伯耆国保田庄三谷村(日野郡)の地頭職が寄進される。

 

1340年11月7日(興国元年10月17日/歴応3年10月17日)

美作国靑倉庄地頭職に任じられる旨の綸旨を賜る。

試説では相見氏の南朝に対する変わらぬ忠心を讃えている。(伯耆志)

 

伯耆志 馬場村の条

但馬国土田郷一分地頭職并亀別宮地頭職依為由緒之地可被知行之状如件

観応二年十二月廿七日 源(判)

相見左衛門太夫入道殿

 

(試説)右第五

(略)源某は足利義詮なるべし。此頃義詮伴て南朝に和を乞い奉り(略)正平六年と記せざるは固より実の降参に非るが故に南朝に関係なき時は彼年号をば用いざりしなるべし。

 

1352年1月14日(正平6年12月27日/観応2年12月27日)

但馬国土田郷一分及び亀別宮の地頭職に関する下知書から、この頃より入道号を使用したと推測される。

八幡神社社記では元来より八幡宮の神主であったと伝える。

試説には相見氏が北朝の年号を用いるのは南朝と関係のない場合に限るとしている。(伯耆志)

 

伯耆志 馬場村の条

巨勢宗国合戦依有合咸忠可有恩賞矣

元和三年三月四日 左近中将(華押)

 

(試説)右第七

上に云う如く咸を盛の誤りとせば合は家の誤りなるべし。若し然らば前代家盛の功に依て云々という義なり。元和は文和の誤りなるべし。然れば上の正平九年と同年にて彼は二月此は三月なり。当家の旧功を標する書には必ず南朝の年号を記すべき理なれば甚だ訝しきに付て按ずるに山名時氏去年足利に叛き南朝に降参したれば相見氏彼に頼りて所領安堵の事を訴えしに時氏南朝へは奏せずして私に書きて與えたるが故に斯く猥雑なるもの歟。文意は今時の約束書という物に似たり。

 

1354年3月28日(正平9年3月4日/文和3年3月4日)

元弘3年の後醍醐天皇による綸旨とほぼ同内容だが年号が元和となっており、文和の誤りとしている。

後醍醐天皇からの綸旨では「巨勢宗国、合戦にて忠有るに依り恩賞有る可」としていたが、伯耆志の写しでは「巨勢宗国合戦に有り。家盛に忠有るに依り、恩賞有る可」と、巨勢家盛の忠勤を評する内容に加筆されている。

 

伯耆志 馬場村の条

大膳大夫源朝臣(判)

(略)右於彼神領反銭以下諸役令停止所也早守先例神主相見左衛門五郎可全社役之状如件

応永廿六年十二月廿五日

 

(試説)右第九

(略)大膳大夫源某は社伝に佐々木と記せるを思うに尼子氏の先祖、佐々木道誉が孫(外史に曾孫とす。今江北記、陰徳太平記に據る)大膳大夫高詮なるべし(略)

 

1420年1月10日(応永26年12月25日)

段銭や諸役(税金)に係る取り決めは先代神主の頃の通りとしており、八幡宮の神主を務めていたことが伝えられる。

 

伯耆志では9通の文書の内容及び花押を参考に、それぞれ試説として筆者が真偽等の所見を述べている。

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