所 属
紀
よみがな
氏族名
こせ し
巨勢氏
別 名
あいみ し
会見氏
巨勢宗国を祖とする
官 途
-
出身地
伯耆国会見郡巨勢郷、伯耆国会見郡星川郷
生 年
-
没 年
-
氏
紀
姓
朝臣
諱
-
列 伝
古代豪族で伯耆国会見郡内に所在した十二郷のひとつ、巨勢郷に勢力を有した一族。
出自は不詳とされるが伯耆志では往古に上国から会見郡へ移った一族があったとすることから安曇族、宗像族等と同様に九州より流れ着いた一派とも考えられる。
伯耆志 会見郡の条 郡名の項
(略)同書(延喜民部式など)当郡の郷名十二(次に挙ぐ)の中、巨勢、会見、半生の三郷は村に其名伝わらずして数人に問えども知れる人なく(略)
郷名 和名抄に日下、細身、美濃、安曇、巨勢、蚊屋、天萬、千太、会見、星川、鴨部、半生とあり此名今庄また村に存せり。但し三名を欠く事上に云えるが如し。
伯耆志では郷名は残れど地名に因む一族が既に存在しない郷として巨勢郷、会見郷、半生郷を挙げている。
八幡神社の社記(鳥取県神社誌)では八幡神社(八幡宮)の神主を巨勢宗国と伝えており、相見氏の祖ともしている。
相見家文書(元弘三年三月四日 左近中将)
巨勢宗国依有合戦忠可有恩賞矣
元弘三年三月四日 左近中将(花押)
1333年(元弘3年/正慶2年)
船上山の戦いでは巨勢宗国、巨勢家盛らが後醍醐天皇へと与力し南朝方として活動する。
後醍醐天皇より直筆の感状(綸旨)を賜るなど格別の戦功を挙げ、現存する綸旨及び寄進状には但馬国土田一分、亀別宮、美作国靑倉庄の地頭職を与えられていたことが記されている。(伯耆志 馬場村の条)
伯耆志 箕村の条 進氏 私称之姓の項
(略)当郡に巨勢郷、星川郷ありて和名抄に載す(星川の説は市場村の下に記す)れば上古右の両氏の采地なりし故に此名あるなるべし。其例枚挙すべからず巨勢郷詳ならざれども馬場村八幡村の相見氏旧巨勢氏なるを以て思うに(八幡村の下見合すべし)往古巨勢氏の族、上国より当郡に来り其故を以て紀氏又此地に来る者歟。
(略)按ずるに紀氏巨勢氏一族なるが上に両家時に婚姻を結びなどして通姓をも混一せしなるべし。
伯耆志では往古に上国より流れ着いた一族があったとしている。
延喜式では九州の上国として豊前国、豊後国、筑前国、筑後国、肥前国の五ヶ国を挙げている。
伯耆志 八幡村の条
相見氏(私称姓)
(略)馬場村の会見氏が分家なるに元弘以降の綸旨及び諸家の証文等当家に蔵する事其故を知らず。本は巨勢氏にて相見又進と称する事並びに八幡宮の神主たりし次第、綸旨証文の説等悉く箕村馬場村の下に記したればここに略す。
(略)和名抄に見えたる巨勢会見の(兵部式驛馬の下に見えたる相見も同じ)二郷は必此地方なるべし(略)当家先祖元弘三年の綸旨に見えたる。巨勢家盛興国元年の綸旨に見えたる。相見五郎左衛門尉宗国観応二年の証文に見えたる。左衛門大夫入道応永七年の証文に見えたる。(略)
馬場村の会見氏(相見氏)は所蔵する綸旨や証文の由縁を知らなかったとされ、分家であったために全く伝えられてこなかったのではと結んでいる。