所 属

村上

名和

松田

よみがな

氏族名

あらまつ し

荒松氏

官 途

出身地

但馬国、伯耆国汗入郡長田庄

生 年

没 年

不詳

不詳

列 伝

平安時代末~鎌倉時代頃に但馬国で上頭の管理を任された地頭の一族、村上氏(後の名和氏の家臣と伝える。

 

1221年(承久3年5月)

承久の乱では村上氏と共に後鳥羽上皇の召集に応じたと推測される。

後鳥羽上皇の追討軍は幕府方に敗北する

1221年(承久3年7月)

後鳥羽上皇は隠岐へ配流となる。

上皇方として参戦した村上行明村上行盛北条氏によって但馬国の所領を没収され、野坂氏ら家臣と共に比叡山へ亡命したとされるが修行生活の後、大山寺末寺の長田観音寺領へと移り長田の地を拠点にしたと伝える。

 

1331年(元弘元年)

元弘の乱では名和氏と共に後醍醐天皇へ与したとされるが文献によって立場が異なり、名和氏とは対等の立場にあった在地豪族とする説と名和家代々の家臣の一族とする説が見える。

名和氏が名和へ移った後も長田に留まり村上行明村上行盛の墳墓を守ったとする言い伝えから名和氏の転出後も長田一帯を治めたと考えられる。

 

1336年(建武3年/延元元年)

湊川の戦いの後に京へと入り、一条大宮で討死にした名和長年の首を伯耆に持ち帰ったと伝えられる。

同年、名和長年が軍勢を率いて京へ向かったために伯耆の守りが薄くなった隙を突いたか、或いは名和長年の戦死が伝わり名和方の混乱に乗じたかは定かでないが、出雲国造による伯耆侵攻に対しては伯耆国長田城松尾城で守備を担ったと推測される。

 

1467年~1477年(応仁元年~文明9年)

応仁の乱では東出雲の有力国人、松田氏に協力したと伝える。

 

一族には名和氏に協力し伯耆国富長城を築城或いは強化したとする荒松兵庫、1338年6月10日(延元3年/暦応元年5月22日)に堺浦安部野で討死した荒松忠成などが見える。

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