伯耆古城図録

まつおじょう

松尾城

鳥取県西伯郡大山町長田(字松尾城)

※むきばんだ史跡公園内ですが非公開エリアのため一般公開はされていません。

当城域への一般の方の立ち入りや見学はできません。

別 名

長田城(ながたじょう)

遺 構

郭跡、土塁、土橋、居館跡

現 状

山林(むきばんだ史跡公園内)

城 主

不明(村上氏荒松氏が推定される)

築城年

不明

廃城年

不明

築城主

不明(村上氏が推定される)

形 態

山城

備 考

国指定史跡(平成11年12月22日指定)※松尾城としての史跡指定ではない。

参考文献

出雲千家家文書

汗入史綱(昭和12年9月 国史研究部 本田皎)

郷土史 長田(1974年 郷土史長田編さん委員会)

新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)

縄張図

松尾城略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

南北朝時代は名和氏が領有し、長田周辺を預かった家臣の荒松氏が所領した城と推定される。

字名に「松尾城」が見え、山中に松の木が多く茂っていたことから「松生」→「松尾」の字が当てられたか、村上氏名和氏)の拠点、長田邑の端に立地したことから「末尾」の意味での呼称が転じた可能性も推測される。

 

荒松氏の拠点であった長田集落北側の松垣には蜜柑の古木を挟むよう左右に高さ約1m50cmの大五輪塔が2基あり、名和長年の曾祖父の村上行明と、祖父の村上行盛の墳墓と伝えられている。

墳墓は代々荒松氏が護り、元来は集落に近い南側の村上屋敷周辺に鎮座したと推定されるが幾度か洪水によって流され現在の位置に鎮座とある。

往古より旧3月15日は縁日として前夜より献灯が行われ、集落では一般的に休日とされていたようである。

 

城域は鳥取県立むきばんだ史跡公園の松尾城地区内に所在し、大きく分けて7~8つの郭跡群が確認できる。

(ゴルフ場建設前に行われた調査の報告書では7区に分けて調査が行われている)

主郭(7区)から北の尾根(6区)には松尾池側からの侵攻に対する土塁、谷を挟んだ向かいの細い山(5区※汗入史綱ではこの位置に城跡の図示有り)に見張台(或いは狼煙台)があり、松尾池を挟んだ北の山麓には名和氏に関係すると伝えられる高さ3メートル程の土塁で囲まれた方形居館跡(長田砦)が所在したと云われることから、当城は長田集落の詰めの城であった可能性も考えられる。(方形居館は工場建設のため破壊済。また調査も行われていない)

 

出雲千家家文書

出雲国造舎弟六郎貞教、去六月十九日伯州馳向長田城、於搦手致合戦忠候、同月晦日同□馳向小松城、大手致合戦忠節候之処、若当高木又次郎右足被討候畢、軍御奉行御見知之上者、給御判為備後証、粗言上如件 建武三年七月

※□は判読不明だが「国」と推定される。

 

塩冶高貞の軍忠状には1336年(延元元年/建武3年)6月19日、出雲国造の伯耆国小松城攻めに際して「伯州長田城」とだけ記述が見える。

当時の小松城の城主、小松氏は商品の生産、名和氏が海運など通商を担って勢力を拡大したと云われていることから、軍忠状の内容からも出雲国造の狙いは物資の生産拠点とされる小松城であったことが読み取れる。

小松城の所在した金田地区にはたたら製鉄に由来する字名や遺物を見ることができ、規模は不明ながら鉄の生産地であったことが伺える)

 

軍忠状の「長田城」が当城であるとすれば小松城の攻略にあたり、名和方面からの増援部隊を牽制・分断したい思惑から、当時の戦い方では卑怯な戦法とされる「搦手」からの攻撃方法を採用してまでも確実に抑えておきたかった城砦であったと考えられる。

「搦手」を左方からの攻撃であったとする推察もあり、当時の大手門が北側を向いていたことが考えられる。

 

1336年(延元元年/建武3年)6月19日に当城は落城、同年6月30日に小松城も落城と云われる。

その後、当城と小松城に関しての記述が見えなくなることから出雲国造は小松城を領有せず、物資などを略奪し出雲国へ引き揚げたとも考えられる。

 

余談として伯耆国には「長田」と付く地名がもう一ヶ所存在する。

平安時代頃、現在の法勝寺周辺に藤原氏の領した「長田荘」と呼ばれる荘園が所在し、こちらの長田荘の方が格段に規模が大きく由緒もある土地であったと云われる。

地理的に小松城とは陸路であれば出雲国と近く、出雲千家家文書に記述される「長田城」は伯耆国法勝寺城周辺と唱える説もある。(名和氏が元々、長田氏を称していたことから当地が名和氏発祥の地と推す説もある)

 

ただし、出雲千家家文書に記述される「長田城」を会見所在とする説を採る場合、汗入所在に比べると信憑性は限りなく低くなる。

会見とする根拠は

・長田荘は由緒のある大規模な荘園であり、汗入とは規模も歴史も違うこと

・出雲国造の小松城進軍ルート(陸路)上にあること

上記2点でのみである。

 

会見の長田荘は建久元年(1190年)10月13日頃、大舎人允の藤原泰頼が伯耆国会見郡長田の庄得替を願い出て所領安堵の沙汰を得たとしており、後醍醐天皇の時代頃のものとされる鉄鋳仏の光背に「大檀那藤原泰親大願主藤原氏女院主宗賀大工道覚 元応二庚甲四月廿一日」と銘があることから1320年(元応2年)頃までは長田荘周辺は藤原泰親が勢力を保っていたことが伺える。

承久の乱で亡命同然に落ち延びてきた村上氏藤原氏が治める長田荘を拠点として掌握できた余地があったとは考え難い。

また、出雲国から小松城へ陸路での進軍ルート上に長田荘が所在することも仮説の一つに挙げているが、当時は水路からの侵攻・進軍も多く、陸路が重なるだけの地形判断では決め手に欠ける。

更に余談になると島根県安来市伯太町安田字城山にも「長田城」と呼ばれる要害があり、こちらも出雲国から小松城への進軍ルートと重なる。

 

出雲千家家文書に記述される「長田城」を長田荘とするには判断の基準となる史料・資料はあまりにも乏しく、状況証拠も担保できないため、現時点で伯耆国の長田城はこの「松尾城」を推定したい。

 

出雲千家家文書に記述される「長田城」を今に伝わる法勝寺城(或いは周辺の同規模の城砦)と仮定するなら堅牢な城砦であったことが想像でき、搦手から攻めざるを得なかった可能性は十分に考えられる。

 

現在の地理状況から考えると出雲国から小松城を狙うには陸路で最短距離であり、その障害になり得そうな城砦は法勝寺城が考えられることから、陸路での行軍を考えるなら「長田城」を法勝寺城とする説が短絡的に浮かぶ。

小松城を領有する気が無いなら名和方面の増援部隊の押さえを考える必要は無く、増援が来る前に物資だけ奪って引き揚げる作戦も視野に入る。

 

ただし、この策を採るのであれば法勝寺城を陥としてから小松城を陥とすまでに10日程の時間を要した状況の説明が必要となる。

部隊の再編成に多少の時間を要するにしても名和氏からの増援がいつ来るかわからない状況の上、奪った物資の搬出時間などを勘定すると最大限迅速な行動が必要になると考えられるのに、実際のところは大変悠長な動きに見える。

この時、名和長年小松氏は主力を率いて京都へ出兵していたため、増援の余力はないと読んでの展開であった可能性も考えられる。

 

年 表

1335年

建武2年

10月、出雲国守護、塩冶高貞足利尊氏へと寝返る。

1336年

建武3年/延元元年

6月、塩冶高貞(出雲国造軍)による伯耆侵攻が始まる。

6月19日、出雲国造軍の搦手(左方)からの攻撃により落城と伝わる。(出雲千家家文書)

地 図

 

写 真

訪城日 2015/10/26、2015/11/21~22、2016/11/04、2017/11/16

北からの遠景(2015年)

北からの遠景(2016年)

北からの遠景(2016年)

北からの遠景(2017年)

郭跡(一区)

郭跡(一区)

郭跡(一区)

郭跡(一区から二区)

郭跡(二区から三区)

郭跡(三区)

郭跡(四区付近から日本海の遠望)

郭跡(四区付近)

郭跡(四区から日本海の遠望)

郭跡(四区)

松尾池から五区(狼煙台)の北端

五区(狼煙台)への山道

五区(狼煙台)への道中には土橋や切岸

五区(狼煙台)への道中には土橋や切岸

五区の狼煙台

主郭と推定される七区(埋戻済)

北側の最上部から七区の郭の眺め

郭跡中程に見える土塁から最上部

七区(主郭)最上部は見張台(推定)

郭跡中程の土塁(南側から)

郭跡中程の土塁(北側から)

七区北部(北一郭)の土橋

七区北部(北一郭)の土橋横土塁

七区北部(北一郭)の腰郭

七区北部(北一郭)

七区北部(北二郭)

七区北部(北二郭)

七区北部(北一郭から北二郭)

七区北部(北一郭から北二郭)

国史跡 妻木晩田遺跡

松尾池の碑文

長田集落から妻木晩田遺跡

名和氏先祖之御墓所

長田神社

長田神社社殿の礎石(伝・柱の神様)

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