伯耆古城図録

ながたとりで

長田砦

鳥取県西伯郡大山町長田

別 名

[伝]名和氏居館(なわしきょかん)

遺 構

郭跡、土塁、空堀、竪堀、横堀

現 状

山林(むきばんだ史跡公園内)、工場

城 主

不明(荒松氏が推定される)

築城年

不明

廃城年

不明

築城主

不明(荒松氏が推定される)

形 態

海城

備 考

国指定史跡(平成11年12月22日指定)※当城砦としての史跡指定はない

参考文献

郷土史 長田(1974年 郷土史長田編さん委員会)

大山町誌(昭和55年10月 大山町誌編さん委員会)

縄張図

不明

 

概 略

国史跡「妻木晩田遺跡」の東部丘陵に所在する。古くは狐塚と呼ばれている。

伝承には名和氏に所縁のある居館が所在したと云われるが、工場建造による造成がなされ大きく破壊されている。

 

立地、構造から蒙古襲来に備えて築城された城砦の一つで、日本海側の諸海城(伯耆国末吉城、伯耆国福尾城、伯耆国富長城、伯耆国長野城など)と同時期の建造と推測され、特に富長城との共通点が多い。

 

近年の通例では造成前に発掘調査が行われるが、当時は全く調査されることなく破壊が行われたため調査報告書など資料も存在しないとしている。

当時の状態を知る方曰く、4~5m程度の土塁で囲まれた方形居館跡にも見えたとしている。

残存部と推定される遺構については残存土塁の残る西側の郭跡、南東側に土塁状の土壁、郭の中央北に堀跡、北側の丘陵に連郭状の帯郭と竪掘、横堀と考えられる堀跡などが見える。(畑として利用されていたとすることから水路跡の可能性も)

 

名和氏の頃の城砦とするなら当時は北側の山麓付近まで海岸線、或いは湿地帯であったことから日本海側の見張りや海路を警備した海城としての運用が推定される。

また、当時を知る方から「4~5m程度の土塁で囲まれていた」との証言があり、設計に於いて用途と構造に富長城との共通点が見えることから、当砦も荒松氏による改修が行われた可能性が見当として挙がる。

 

名和氏が西伯耆に勢力を伸ばした頃、長田周辺は荒松氏が守備したとされ、富長城荒松氏による築城とも云われることから当砦(或いは城館)は荒松氏が築城・改修及び管理を担ったことが推定できそうである。

 

登城口付近には1792年(寛政4年)に松尾池拡張工事中に起きた山崩れの事故により無くなった3名の戒名が彫られた碑文が移設されている。

碑は事故後25年忌にあたる1816年(文化13年)10月に3名の霊を慰めるため池の畔に建立されたと伝わる。

 

年 表

1330年頃

元徳年間

この頃、蒙古襲来に備えた城砦が日本海沿岸に相次いで築城とされる。

不明

伝承には名和氏に関係する武将の居館が所在したと伝わる。

地 図

 

写 真

訪城日 2017/11/16

南の長田集落からの遠景

国史跡 妻木晩田遺跡

工場横の作業道

南西の土塁隅

南西側の土塁

南西側の土塁

東側の土塁

北側の腰郭(帯郭)

北側の腰郭(帯郭)

北側の腰郭(帯郭)

北側の腰郭(帯郭)

北側の腰郭(帯郭)

北側の空堀と土塁(古道)

北側の空堀と土塁(古道)

北側の空堀と土塁(古道)

北側の土塁と空堀

北側の土塁

北側の土塁

北側の土塁

北側の横堀

郭内の堀跡

残存郭内の堀跡

残存郭内の堀跡

残存郭内の堀跡

郭跡残存部

郭跡残存部

北側の竪掘

北側の竪掘

北側の竪掘

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