伯耆国 会見郡
こまつじょう
小松城
所在地
鳥取県西伯郡南部町金田(字吹屋)
城 名
小松城(こまつじょう)
別 名
―
築城主
不詳(小松氏が推定される)
築城年
不詳
廃城年
不詳
形 態
丘城
遺 構
郭跡、土塁、虎口、空堀、堀切、切岸、横堀、竪堀、井戸跡
現 状
畑地、山林、公園
備 考
会見町指定文化財(平成10年12月4日指定)
南部町指定文化財(平成16年10月1日指定)
縄張図
小松城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻二 大正5年8月 佐伯元吉)
出雲千家家文書
伯州六郡郷村帳(文政11年)
鳥取縣神社誌
新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)
米子史談-19-
会見町誌(昭和48年11月 会見町誌編さん企画委員会)
会見町誌 続編(平成7年10月 会見町誌編さん企画委員会)
会見町誌 完結編(平成16年9月会見町誌完結編編纂委員会 )
山陰史跡ガイドブック第1巻 山陰の城館跡(改訂版)
日本歴史地名大系第32巻 鳥取県の地名(1992年10月 平凡社)
概 略
元弘の変の後、南北朝時代には名和氏に協力し天皇方として足利方勢力に対抗した在地豪族小松氏の居城と伝える。
主郭とする丘陵の最頂部には土塁を配した郭跡が確認できる。
腰郭として4段程度の郭跡が見え、宮谷川へと続く断崖を天然の城壁とし、宮谷川、小松谷川を外濠に利用したと推測される。
出雲千家家文書 塩冶高貞軍忠状(出雲国造舎弟貞教軍忠状)
出雲国造舎弟六郎貞教、去六月十九日伯州馳向長田城於搦手致合戦忠候同月晦日同□馳向小松城大手致合戦忠節候之処若当高木又次郎右足被討候畢軍御奉行御見知之上者給御判為備後証粗言上如件 建武三年七月
※□は判読不明だが文脈より「州」や「国」が推測される。
文書への記述は乏しく出雲千家家文書にのみ城名を見ることが出来る。
塩冶高貞の軍忠状には1336年(建武3年/延元元年)6月30日(晦日)、出雲国造孝時の舎弟六郎貞教(貞孝とも)の軍勢から攻撃を受けたとあり、小松氏の率いる守備隊と大手門付近で激しい戦闘が行われその日のうちに落城したと伝わる。(出雲千家家文書)
一説には周辺の主だった名和方の将兵は名和長年と共に京都方面への戦いに赴いていたため当城の防衛には老兵や女子供しか残されておらず、2時間足らずで落城したと考える向きもある。
出雲国造の軍勢は先立って伯耆国長田城を搦手から攻撃していることが書状より読み解くことができる。
当時の戦では大手以外からの攻撃を「如何なる理由があれど、仮に勝利を得ても謗りを免れない卑怯な戦法」と蔑視する風潮があったとすることから、一連の侵攻では当初より謀を以ってでも手堅く勝利を得ようとしたことが推測できる。(このような戦法を取ったことを敢えて文書に残し上奏した意図は不明)
長田城を攻略した際、名和方の戦力が手薄と悟ったのか当城へは大手(正面)から正攻法で攻撃を仕掛け落城させている。
※長田城は妻木晩田遺跡内に所在したとされる伯耆国松尾城が考えられている。
一説には会見郡長田荘に所在した伯耆国法勝寺城を長田城とする説もある。
但し、こちらの説は当時の勢力関係や地勢、地形が殆ど考慮されておらず、地名と直線に侵攻した場合の通過点であることだけに頼った説で説得力に欠ける内容と見える。
1336年(建武3年/延元元年)6月30日に落城とされ、小松氏の動向も不明となる。
同日、京都大宮で名和長年らが戦死したと伝えている。
同年には天万の地頭であった小早川道円が足利尊氏から所領安堵を受けていることから盟主を失った小松氏は名和氏と共に没落したと考えられる。
1363年(正平18年/貞治2年)、山名時氏が伯耆守護職に任ぜられた頃に在地土豪など勢力を掌握し伯耆山名氏が基盤を整えたとするが、当地の記録は極端に少なくなる。
伯州六郡郷村帳
城主 佐々木伊与守古城あり。
伯州六郡郷村帳(文政11年)では城主を佐々木伊与守(佐々木伊予守)とする。
佐々木伊予守は尼子経久のことであり、尼子経久が当城に居住したとは考え難いため広義の意味合いと推測されるが、伯耆山名氏の権勢が衰え始めた頃から尼子氏が滅亡するまで小松庄を尼子氏が領有していたことを伺わせる。
伯耆誌 宮谷村の条 城跡の項
城跡、村の東の岡なり。五輪塔あれど伝承ならず。
伯耆志 御内谷村の条 雲光寺の項
馬屋原氏又毛利氏の臣なり。
御寺領之内横枕壹段之儀者人給被遣候。是者先判之事候。可被成御分別候。為替地田小はけ之前田右同所之上河内給之上合壹反被遣之候。為其一通申上候乃如件。 天正十一年八月十九日 馬屋原河内守俊久 花押 吉田木工允元政 花押
伯耆志では城跡に五輪塔があったこと、雲光寺の寺領や寄進についての記述が見える。
天正年間は毛利家の家臣、馬屋原氏の居城であったと伝える。(鳥取県神社誌、平凡社『鳥取の地名』)
城主とされる馬屋原氏に関しては金龍山雲光寺への書状に馬屋原俊久の署名と花押が記されている。(伯耆志)
城砦に関係する字名として「城越」「土居敷」「土井」「弓場」「伝馬場」「トイ口」が残る。
名和氏の頃から周辺ではたたら製鉄が行われていたとされ、製鉄、鍛冶(たたら場)に関係する地名に「吹屋山」「カナ場」「金突」「金突山」「上金突」「下金突」「上吹屋」「下吹屋」などが残る。
江戸時代頃には主郭にたたら製鉄の吹屋が置かれたと伝え、「吹屋山」の旧字が残るが、主郭からはカナクソなどたたら製鉄に関する発掘物は一切出ていないと伝える。(南の出丸付近では現在でもカナクソを見つけることができる)
外堀(濠)とされた川名は「宮谷川」「小松谷川」と資料によって記述が異なるが、どちらの川も利用されたと考えられる。
現在、城跡に一番近い川の名称は「金田川」となっている。
写 真
2014年2月22日、2014年6月15日、2016年5月2日