所 属
毛利
宮
▶
毛利
日野山名
▶
毛利
日野
▶
毛利
小早川
よみがな
人物名
やまな いずみのかみ かげゆき
山名和泉守景幸
景行とも
別 名
くしろ いずみのかみ かげゆき
久志路和泉守景幸
日野郡内での表記で景行とも
別 名
くしろ いずみのかみ かげゆき
久代和泉守景幸
備後国奴可郡釧の宮氏に因む久代殿とし景行とも
別 名
みや かげゆき
宮景幸
宮景盛の次男とし景行とも
別 名
別 名
ひの しんじろう
日野新二郎
萩藩閥閲録に所収の文書に記述
別 名
ひの さこん
日野左近
小早川秀明からの書状に記述
別 名
ひの ようじん
日野要人
毛利輝元からの書状に記述
官 途
和泉守、左近丞(左近衛将監)
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
源
姓
朝臣
諱
景幸
列 伝
備後国の国人、宮景盛の次男。伯耆国亀井山城主。
山名藤幸の家督(日野山名氏)を引き継ぎ日野姓を名乗ったと伝えるが、後に小早川家の家臣となり当地を離れている。
伯耆志 久連村の条 古城の項
(略)当村は生山村の住人、景行知行せしと云えり。
伯耆志では生山村に居住し久連村まで知行したとすることから山名藤幸の家督を引き継いだ後に日野衆の所領を吸収し、日野郡の広い範囲を領有していたことが推測される。
1598年3月6日(慶長3年1月29日付)
毛利輝元からの書状では「日野要人」と見える。
1599年3月29日(慶長4年3月3日付)
小早川秀明からの書状では「日野左近」と見える。
1600年9月26日(慶長5年8月19日付)
宛名が「日野左近」と見える。
1600年12月16日(慶長5年11月11日付)
宛名が「日野左近」と見える。