所 属
尼子
蜂塚
よみがな
人物名
はちつか あわのかみ
蜂塚安房守
官 途
安房守(鳥取縣神社誌 宮市神社由緒)
出身地
伯耆国日野郡
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
源
姓
朝臣
諱
不詳
列 伝
日野郡の有力国人衆(日野衆)、蜂塚氏の一族で伯耆国江美城を草創し初代城主と伝える。
出自は不明だが清和源氏の新田氏を称し、鉄山経営(鉄穴及び製鉄)と開田の技術(稲作)に長けた一族とされる。
出雲国の尼子氏と誼を結んだとされる頃から日野衆の一翼として台頭し、日野郡の北東部で進氏と比肩する勢力を有した。
鳥取縣神社誌(宮市神社由緒)
往古より若一王子権現と称う。紀伊国熊野より勧請せしこと社伝旧記に見ゆ。
昔時此地の豪族進氏の崇敬厚く、其後文明年中蜂塚安房守江尾在城以来二代三河守、三代丹波守、四代右衛門尉に至る迄八十餘年間崇敬厚く、社領高十三石六斗五升三合寄附せらる。
永禄八年八月蜂塚氏吉川駿河守に亡ぼされ、為めに社領を失い社殿等も荒廃するに至る。
1484年(文明16年)
江美城を築城したとされるが、鳥取県神社誌(宮市神社の項)では文明年間に江美城へ在城したことのみが記述に見え、江美城はこれより以前、進氏が治める頃から存在していたとも考えられる。
また、文明年間頃の江美城は舟谷川を挟んだ北側の銀杏ノ段に所在としている。
鳥取縣神社誌(鳥取縣神祇年表)
文明十八年(紀元二一四六年丙午)
蜂塚安房守日野郡米沢村宮市神社に社領寄進
天文五年(紀元二一九六年丙申)
蜂塚旧領主日野郡江美神社に社領を寄す
1486年(文明18年)
宮市神社へ社領を寄進とある。(鳥取縣神社誌)
1524年(大永4年)
尼子経久による伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)後に尼子方へ恭順したとされているが、1433年(永享5年)には尼子持久によって亀福山光徳寺(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)への寄進が行なわれていることからも尼子氏が早い段階で伯耆国内に拠点を保持しており、当代以前より尼子氏と深い関係を持っていたことも伺える。
1536年(天文5年)
旧領主が江美神社へ社領を寄進とある。
日野郡史ではこの頃の江美城(銀杏ノ段)の城主を蜂塚義光、藤井蔵人としていることから旧領主は初代から三代目の何れかが該当と考えられる。