所 属

中村

豊臣

よみがな

人物名

やの いずみのかみ まさとも

矢野和泉守正倫

 

通 称

やの いずみ

矢野和泉

中村記や伯耆志の禄高一覧での表記

官 途

和泉守

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

1614年12月26日(慶長19年11月26日)

不詳

不詳

正倫

列 伝

中村家の家臣。横田騒動で柳生宗章と対峙した矢野正綱矢野助之進)は弟と伝える。

中村家での禄高は中村記、伯耆志で3,000石。続群書類従(中村一氏記)で6,000石とする。

 

1601年(慶長6年)春頃

中村一忠の伯耆国転封に従い伯耆国へ入り、中村一忠の伯耆国入封後は伯耆国江美城の城番に任じられている。

弟の矢野正綱中村一忠に仕え、組頭として米子の家臣団を纏めている。

 

1603年12月16日(慶長8年11月14日)

中村一忠によって横田村詮が誅殺されたことから横田方の遺臣が伯耆国飯山城(丸山の内膳丸とも)に立て籠もり内戦状態となる。(横田騒動)

横田騒動には登場しないため動向は不明。江美城の城番として日野郡内に滞在したと推測される。

 

1609年6月12日(慶長14年5月11日)

中村一忠が死去。無嗣断絶として中村家は改易となった。

京都の屋敷に側室の男子が在ったが正室の浄明院に配慮して嫡男とする届け出が為されていなかったため無嗣断絶として扱われたとする。

 

1609年(慶長14年)11月

米子の中村一忠の側室(久米郡嶋村の生まれで梅里氏の娘と伝える)の男子(中村一清)が誕生する。

中村家の改易時、梅里氏の娘が妊娠していたことから無嗣断絶に対して幕府に異議を唱えようとしたが、一部の旧臣(正室の浄明院の意向とされる)によって反対されている。

最終的に幕府へ訴えが伝わったとされるが時既に遅く、中村一清への家督相続は認められず改易の仕置きが覆ることはなかった。

中村家改易後、矢野正綱中村一清を支え中村家の再興に努めたとされる一方、自身は京都の中村一忠の側室の男子を支えるため浪人となり、伯耆国から出奔し京都の屋敷を頼ったとしている。

 

伯耆志 前城主中村氏の条

(略)当年中村氏断絶す。然るに十一月(感応寺筆記に據る)妾腹の子誕生あり。臣下之を補佐して一跡を立つべきに然らざる故は難波戦記に慶長十九年十一月、中村一忠の家人矢野和泉守正倫、内府(秀頼)に訴えて曰く、旧主一忠卒して妾腹の子在り。家人等異議を発して是を訴えず。遂に家絶に及ぶ後、関東に達すといえども時去るを以て家督の許容なし。正倫、此度士卒を管して粉骨砕身し功を立つる事あらば味方大捷の後、中村家の再興懇願する所なりと達しければ内府、武士五十騎を附せらるる由見えたり。(略)

 

伯耆志 中村氏臣物頭以上

三千石 矢野和泉

(略)矢野和泉は慶長十九年十一月、大坂にて東将屋代甚三郎に討る。

 

1614年12月26日 (慶長19年11月26日)

大坂冬の陣では大野修理より300騎を預かり今福村周辺に布陣して砦の防衛に当っていたが、徳川方の佐竹義宣の部隊と戦闘になり、屋代忠正に討たれた。(今福の戦い)

伯耆志では中村家が改易に至った次第を豊臣秀頼へと訴えており、50名の部下を与えられている。

戦場で大功を挙げることがあれば戦利品の分配よりも中村家の再興を優先するよう強く願ったとされ、最期まで中村家に殉じた忠臣と評される。

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