所 属

中村

池田

 

 

よみがな

人物名

やの ひょうごのかみ まさつな

矢野兵庫頭正綱

よみがな

別 名

やの すけのしん

矢野助ノ進

官 途

兵庫頭

出身地

不詳

生年

不詳

没年

不詳

不詳

不詳

正綱

列 伝

中村家の家臣。同じく中村家に仕えた矢野正倫を兄と伝える。

中村一氏の頃から中村家に仕えた重臣であり、「助之進」は初名とされる。(中村忠文 因伯戦国時代の女性たち)

中村一忠の伯耆国入封後、中村家での禄高は2,000石。

関ヶ原の合戦前後の呼称は「矢野助之進」で統一されるが、中村一忠の伯耆転入頃より「矢野兵庫」とする記述が見られる。

杭瀬川の戦いにおける功績から兵庫頭に任じられたものと推測される。(中村記)

 

1600年(慶長5年)9月14日、杭瀬川の戦いでは西軍の智将、島清興の計略によって中村一忠の率いる部隊が大混乱に陥る中、単騎で敵軍を食い止める無双の勇将として登場する。

杭瀬川を渡河中の中村一忠有馬豊氏が敵の挑発(行軍の眼前で田圃の稲刈りを始めたとする)に乗り攻撃を仕掛けた事に始まり、この戦闘で多数の敵兵を討ち取った中村一忠は敵部隊が潰走を始めたものと判断して追撃を行うが、敵方の敗走は島清興の謀による偽りの退却であり、敵方を追討する形で突出した中村一忠の部隊は伏兵の潜む地点まで誘引される形となっていた。

中村一忠の部隊は島清興の配した伏兵により側面からの急襲を受けた上、偽退却を装っていた部隊も反転し逆襲に転じたため中村方の部隊は大混乱に陥っている。

更に西軍の増援として宇喜多家の部将、明石全登が率いる300余騎も戦場に到着し、混乱した中村方の部隊に攻撃を仕掛けている。

中村家の家老であった野一色助義をはじめ、中村家の家人を含む28名がこの時の戦いで討たれたとする一方、一連の戦いにおける中村一忠の活躍は「無双の武者」「凶暴極まりない残虐の徒」などと表現され、個人の武勇においては万夫不当の豪傑であったとしている。

島清興の伏兵、明石全登の増援によって大混乱に陥る中村方の軍勢にあり自身も同様に潰走中であったが、戦場に孤立する中村一忠の部隊を見つけると只一人引き返し、迫り来る敵方の前に単騎で立ち塞がったとする。

騎乗していた馬には金の扇の指物が装飾されており、指物を見た林文太夫も合流すると深手を負った梅田大蔵を救出している。

追撃してきた明石全登蒲生頼郷の部下数名を討ち取り、士気の高揚に乗じて林文太夫と共に追撃を試みるが赤坂本陣からの伝令では深追いが許されず、命令に従い戦場から撤退している。

撤退命令は不本意であったとし、林文太夫も機を逸したことに立腹している。

杭瀬川の戦いにおける中村方の被害は36名(40余名とも)と伝えている。

同年9月15日、杭瀬川での失態を理由に中村方の関ヶ原への参戦は認められなかったが、南宮山に布陣する毛利秀元吉川広家らに対する押さえとして垂井に布陣し、毛利軍との対峙を伝える。(常山紀談)

 

1601年(慶長6年)春頃、中村一忠の伯耆国転封に従い伯耆国に入る。

兄の矢野正倫は伯耆国江美城の城番へと任じられ、自身は米子城下へ屋敷を構えていたと推定される。

 

1603年(慶長8年)12月、中村一忠によって家老の横田村詮が誅殺される事態が起こると、横田方の遺臣は飯山城(丸山の内膳丸とも)に立て籠もったため内戦状態となる。(横田騒動)

騒動においては伯耆国飯山城付近で行われた野戦で柳生一族の剣豪、柳生宗章との対峙を伝え、中村方の武将として真先に小口(虎口)へと向かい、一番槍として柳生宗章に戦いを挑むが手傷を負ったため退いたとされる。

異説に一番槍として鉾を合わせたのは書院責口の高井左吉右衛門とされ、この戦いで負った傷が原因で戦場から退いたとも伝えている。

 

中村家の改易後は米子の中村一忠の側室の男子、中村一清を支え中村家の再興に努めたとされる。

兄の矢野正倫は京都の中村一忠の側室の男子を支えるため浪人となり、京都の屋敷を頼ったとしている。

 

後に中村一忠の母(安養院春林宗茂大姉)に縁のある池田光仲を頼り仕官を願い出ている。

池田知利の客分として150石で召し抱えられ、池田光仲の陪臣という形で迎えられている。

 

仕官時期については時期に幅があり、池田家の領国入替及び知行拡大に伴う人材不足が顕著であったことから、広く在野の有能な士を求めた池田輝政に招かれ家臣になったとも伝えている。

池田輝政は1613年(慶長18年)1月に死去しており、これより以前の登用とするなら鳥取藩を治めた池田長吉に仕える形となり、中村家改易後は比較的早い段階で再仕官したことが推測される。

同時期には因幡方面を流浪していた林文太夫も池田家へと仕官している。

当初の禄高は100石とされ、後に150石へ加増したとする記述も見られる。

 

1648年(慶安元年)12月、東照宮の鳥取勧請の許可を得て造営が開始される。

 

1651年(慶安3年)、鳥取東照宮が完成し、献灯を奉納している。

 

1668年(寛文8年)頃、大寄合の席次が新設され、番頭は次席から三席へと格下げとなる。

矢野家は番頭の証人上の格式に並び、所領の石高は2,000~3,000石とされる。

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