所 属
中村
▶
池田
よみがな
人物名
やの ひょうごのかみ まさつな
矢野兵庫頭正綱
初 名
やの すけのしん
矢野助ノ進
関ヶ原の合戦前後及び横田騒動での表記
通 称
やの ひょうご
矢野兵庫
中村記や伯耆志の禄高一覧での表記
別 名
やの すけのしん
矢野助進
続群書類従(中村一氏記)での略称
官 途
兵庫頭
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
諱
正綱
列 伝
中村家の家臣。同じく中村家に仕えた矢野正倫は兄と伝える。
中村一氏の頃から中村家に仕えた重臣であり、「助之進」を初名としている。(中村忠文 因伯戦国時代の女性たち)
中村一忠の伯耆国入封後、中村家での禄高は中村記で2,000石、伯耆志では3,000石と記す。
関ヶ原の合戦前後及び横田騒動での呼称は「矢野助之進」で統一されるが、中村一忠の伯耆転入頃を境に「矢野兵庫」とする記述が見られることから杭瀬川の戦いにおける一連の功績から兵庫頭へ任じられたものと推測される。
1600年10月20日(慶長5年9月14日)
杭瀬川の戦いでは西軍の智将、島清興の計略によって中村一忠の率いる部隊が大混乱に陥る中、単騎で敵軍と対峙する無双の勇将として登場する。
事の発端は杭瀬川を渡河中の中村一忠と有馬豊氏が敵の挑発(行軍の眼前で田圃の稲刈りを始めたとする)に対して攻撃を仕掛けた事に始まり、この戦闘で多数の敵兵を討ち取った中村一忠は敵部隊の後退を潰走と判断して追撃を行うが、敵方の後退は島清興の謀による偽りの退却であり、追討する形で突出した中村一忠の部隊は敵方の伏兵が潜む地点まで誘引される形となっていた。
島清興の配した伏兵により側面からの急襲を受けた上、退却を装っていた部隊も反転し逆襲に転じたため、突出していた中村一忠の部隊は前面と側面から敵軍に挟撃される形となり、後続から続く中村方の部隊のため退路も塞がれ進退極まり大混乱に陥っている。
更に敵方の増援として宇喜多家の部将、明石全登が率いる300余騎も戦場に到着し、混乱する中村方の部隊に攻撃を仕掛けている。
中村家の家老であった野一色助義をはじめ、中村家の家人を含む28名がこの時の戦いで討たれたとする一方、一連の戦いにおける中村一忠の活躍は「無双の武者」「凶暴極まりない残虐の徒」などと表現され、個人の武勇においては万夫不当の豪傑としている。(常山記談)
自身も島清興の伏兵、明石全登の増援によって大混乱に陥る中村方の軍勢にあったが、戦場で孤立する中村一忠を見つけると只一人駆け付け、迫り来る敵方に対して単騎で立ち塞がったとする。
騎乗していた騎馬には金の扇の指物が装飾されており、指物を見た林文太夫も合流し深手を負った梅田大蔵を救出し戦場から退かせている。
追撃してきた明石全登と蒲生頼郷の部下数名を討ち取り、士気の高揚に乗じて林文太夫と共に追撃を試みたが赤坂本陣(茶臼山)に徳川家康が到着し、大事の前の小事として深追いは許されず本陣の命令に従い追撃を行うことなく戦場から撤退している。
本陣からの撤退命令は不本意であったとし、林文太夫も機を逸したことに立腹している。
杭瀬川の戦いにおける中村方の被害は36名(40余名とも)と伝えている。
1600年10月21日(慶長5年9月15日)
杭瀬川での失態を理由に中村方の関ヶ原への参戦は認められなかったが、南宮山に布陣する毛利秀元、吉川広家らに対する押さえとして垂井に布陣し、毛利軍との対峙を伝える。(常山紀談)
1601年(慶長6年)春頃
中村一忠の伯耆国転封に従い伯耆国へ入る。
兄の矢野正倫は伯耆国江美城の城番に任じられ、自身は中村一忠に仕え組頭として家臣団を纏めている。
1603年12月16日(慶長8年11月14日)
中村一忠によって横田村詮が誅殺されたことから、横田方の遺臣が伯耆国飯山城(丸山の内膳丸とも)に立て籠もり内戦状態となる。(横田騒動)
1603年12月17日(慶長8年11月15日)
出雲国月山富田城から堀尾吉晴の援軍530名が大龍山總泉寺へ到着する。
増援の到着を以て依藤半左衛門、藤井蔵人らと横田方の立て籠もる表門(書院責口)を攻め立てるが、高井左吉右衛門と鉾を合わせた時に手傷を追い戦場から退いている。(伯耆志)
一説には飯山城付近で柳生一族の剣豪、柳生宗章との対峙を伝え、中村方の武将として真先に小口(小門、虎口)へと向かい、一番槍として柳生宗章に戦いを挑むが手傷を負ったため退いたとも伝えている。
伯耆志では高井左吉右衛門との戦いで手傷を負ったために戦場から退いたとしている。
自身の撤退後は遠山小兵衛が柳生宗章と対峙し、遠山小兵衛に助太刀した今井治郎七が討たれ、吉田左太夫も手負い撤退、滝川三九郎が討たれ、甘利多郎助と戦い、最期は藤井助兵衛に討ち取られたとするが、柳生宗章を討ち取ったのは自身と室田與左衛門の二人とする説も付記している。
1609年6月12日(慶長14年5月11日)
中村一忠が死去し中村家は改易となる。
中村家改易後は米子の中村一忠の側室の男子、中村一清を支え中村家の再興に努めたとされる。
兄の矢野正倫は京都の中村一忠の側室の男子を支えるため浪人となり、京都の屋敷を頼ったと伝える。
続群書類従 中村一氏記
伯耆志 中村氏臣物頭以上
三千石 矢野兵庫
(略)同兵庫は本府に仕えて組頭たり。今其部下皆中村氏の遺臣なりと云えり。
中村家の改易後は因幡国にて広く有能な士を求めた池田輝政によって招かれ家臣になったと伝えており、中村家の家臣には有能な者が多いと聞くに及び、野に下っていた林文太夫、室田与左衛門など中村家旧臣が多く登用されている。(続群書類従 中村一氏記)
池田輝政は1613年(慶長18年)1月に死去しており、これより以前の登用とするなら鳥取藩を治めた池田長吉に仕える形となり、中村家改易後は加藤貞泰に仕えず因幡国の池田家を頼っている。
仕官後は組頭となり部下は皆、中村家の遺臣としている。(伯耆志)
当初の禄高は100石であったが後に150石へ加増したとする記述も見られる。
一説に中村一忠の母(池田恒興の娘、安養院春林宗茂大姉)に縁のある池田光仲を頼り仕官を願い出たとする。
池田知利の客分として150石で召し抱えられ、池田光仲の陪臣という形で仕えることとなった。
池田知利の家臣とする場合、池田知利の誕生が1630年(寛永7年)であり、中村家改易後から池田家へ出仕する間に20余年以上空白の時間が存在することとなる。
1648年(慶安元年)12月
東照宮の鳥取勧請の許可を得て造営が開始される。
1651年(慶安3年)
鳥取東照宮が完成し献灯を奉納している。
1668年(寛文8年)頃
大寄合の席次が新設され、番頭は次席から三席への格下げとなった。
矢野家は番頭の証人上の格式に並び、所領の石高は2,000~3,000石とされる。