所 属

中村

横田

よみがな

人物名

たかい さきちえもん

田賀井左吉右衛門

 

別 名

たかい さきちえもん

高井左吉右衛門

伯耆志での表記

 

別 名

たかい さきちえもん

田加井左吉右衛門

続群書類従(中村一氏記)の一部に記載

官 途

不詳(右衛門尉)

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

不詳

不詳

不詳

列 伝

中村家の家臣。

中村家での禄高は伯耆志、中村記で1,000石。

続群書類従(中村一氏記)では1,000石と併せて足軽3,000騎の大将としている。

 

伯耆志 中村氏臣物頭以上

千百石 高井左吉右衛門

 

伯耆志 前城主中村氏の条

(略)横田氏に籠る者には弟主馬之助、三好右衛門兵衛、同左内、同玄蕃、高井左吉右衛門、安井久右衛門、同田平、近藤善右衛門柳生五郎右衛門同治郎吉、矢木甚兵衛、桜間甚吉、石川茂平、鵜飼治右衛門等を始めとして九十四人、其外徒士足軽都合二百余人。表門裏門を固め、大将主馬之助は朱の小具足に白き陣羽織を着し軍扇を以て八方を下知す。(略)

横田が表門の討手は一忠の物頭、依藤半左衛門藤江蔵人、戸川丹波、矢野助之進、室田與左衛門。大勢を卒して馳向う。矢野、室田、下知して小門を打破らんとする所に内より高井左吉右衛門、十文字槍を以て突て出ず。矢野、槍を合せて戦いけるが終に突き立てられ手を負て引退く。(略)

 

続群書類従 中村一氏記

一、其夜、内膳一門別而目かけられ候。衆、内膳屋敷へ取篭り申候。大将は横田主馬勢、三好右衛門(孫養子)、柳生五郎(五百石)、打太刀次郎八次郎吉田賀井左吉右衛門(千石、足軽三千人)、安藤久右衛門(七百石)、世忰今平、近藤九右衛門(五百石)、櫻間甚吉(二百石)、石原茂兵衛(百石)、鵜飼次右衛門(右衛門守)、矢木甚兵衛(五百石)、其外数多篭り申候。横田勘解由は作州湯治仕、直に立のき加藤左馬殿へ参られ五百石遣わされ候。

一、書院責口一番槍、矢野助之進、室田与左衛門と田賀井左吉右衛門鎗合、左吉右衛門十文字、与左衛門甲の内突き十文字横手にて顋脣を突き申候故、後まで痕あり。助之進五郎鎗合申候。五郎、十文字、作中堂来にて後代仕る由。遠山小兵衛(六百石)。䏻人にて誉申仁にて候えども五郎渡合討死仕候。 次郎七(三百石)、小姓一角前へ参り申候ば只今五郎書院にて火花を散らし戦申候。我等ならでは五郎太刀打仕もの御座あるまじきと申候えば諸人目を引き不言口言とて何も笑い申候へば即ち参り候て五郎と渡合、五郎をと甲斐を切り由候。次郎七は五郎に切殺され申候。五郎切可弟子也。滝川三九郎、五郎と渡合手負申候。吉田佐太夫鎗合申候。五郎田加井左吉右衛門、安藤久右衛門、同今平、餘多の人数切突殺。五郎打太刀次郎八次郎吉、三人ながら手柄討死仕候。

 

1603年12月16日(慶長8年11月14日)

中村一忠によって横田村詮が誅殺される。

横田村詮殺害の報せを受けた横田主馬助は横田家の遺臣二百余名と共に飯山砦内膳丸とも)に立て籠もる。

横田主馬助に与して飯山砦へ立て籠もった武将のひとりとし、表門の書院責口で中村方の動きに備えている。

 

1603年12月17日(慶長8年11月15日)

出雲国月山富田城から堀尾吉晴の援軍が大龍山總泉寺へ到着し、増援の到着を以て中村方の総攻撃が開始される。

伯耆志では書院責口への一番槍として矢野助之進室田与左衛門が攻め込んで来た際、矢野助之進と戦い手傷を負わせ戦場から撤退させている。

続群書類従(中村一氏記)では書院責口で相対したのは室田与左衛門としている。

十文字の槍を獲物に戦いを挑み、鎧を弾いた横槍が室田与左衛門の顎から唇辺りを切り裂いたとある。

書院責口の戦いでは一番槍の矢野助之進室田与左衛門を退けたことで横田勢が勢い付き、柳生宗章の活躍も相まって中村方は甚大な被害を出したとある。

 

柳生宗章安藤久右衛門安藤今平と並び多くの敵兵を討ち取った武将として挙げられている。

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