所 属
中村
▶
加藤
よみがな
人物名
よこた かげゆ
横田勘解由
官 途
勘解由使
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
源
姓
朝臣
諱
不詳
列 伝
一説には横田村詮の養子とも伝える。
中村家での禄高は3,000石。
伯耆志 前城主中村氏の条
(略)横田氏に籠る者には弟主馬之助、三好右衛門兵衛、同左内、同玄蕃、高井左吉右衛門、安井久右衛門、同田平、近藤善右衛門、柳生五郎右衛門、同治郎吉、矢木甚兵衛、桜間甚吉、石川茂平、鵜飼治右衛門等を始めとして九十四人、其外徒士足軽都合二百余人。表門裏門を固め、大将主馬之助は朱の小具足に白き陣羽織を着し軍扇を以て八方を下知す。弟勘解由は此頃美作湯原に在りけるが此騒動を聞て逃失せ後、加藤氏(水口侯の先祖)に仕えしと云えり。
続群書類従 中村一氏記
(略)横田勘解由は作州湯治仕直に立のき加藤左馬殿へまいられ五百石遣わされ候。
1603年12月16日(慶長8年11月14日)
横田村詮殺害の報せを受けた横田主馬助は横田家遺臣200余名と飯山の砦(内膳丸とも)に立て籠った。
騒動時は美作国湯原に湯治の為に滞在していたが、内乱の報せを聞き及ぶと他国へ逃亡している。
時期は不明だが後に加藤嘉明へ仕えたとしている。(伯耆志)
加藤嘉明へ仕えた後は500石の俸禄を与えられたとされる。(続群書類従)
自身と兄、横田主馬助の俸禄を合わせると横田村詮と同等の禄高になり、横田村詮が身内を重用し政治を私物化していたとする根拠に挙げられる。
服部小膳、藪内匠は横田氏の一族に権力が集中することで身の危険を察し、職を辞して政治の場から退くと他国へ逃れたとしている。