所 属

中村

よみがな

人物名

こんどう ぜんえもん

近藤善右衛門

 

別 名

こんどう くえもん

近藤九右衛門

中村記に騒動で横田方へ加勢した人物として記述

官 途

右衛門尉

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

不詳

不詳

不詳

列 伝

中村一氏横田村詮を家臣として迎えた頃、横田村詮の推挙によって中村家に召し抱えられたとされる。

中村家への仕官後、横田村詮から中村一氏に対して俸禄の加増などが強く働きかけられ特段の厚遇を受けていたことが伺える。

 

1601年(慶長6年)春頃

中村一忠の伯耆国転封に従い伯耆国へ入る。

伯耆国の領国経営について横田村詮安井清一郎天野宗杷らの対立が鮮明になると安井清一郎横田村詮を陥れるため度重なる讒言を行ったと伝える。

 

伯耆志 前城主中村氏の条

(略)慶長八年十一月十四日賀儀の事あり。因て老臣役人に宴を賜う(略)

一忠大音を揚て其者を討留よと下知せられければ番士、近藤善右衛門、長刀を取て追駈け終に村詮を斬倒す。善右衛門村詮に深き恩有ければ彼と知らば殺さざりしならんと世の人云いあえりける。(略)

 

1603年12月16日(慶長8年11月14日)

度重なる讒言に惑わされた中村一忠は正室、浄明院との慶事における不手際を理由に自ら刀を抜き、横田村詮に斬りかかるが致命傷には至らなかった。

奥の間へと退いた横田村詮であったが傷は深く、動くこともままならない状態であった。

横田村詮の推挙によって中村家の家臣となった恩から説得を試みたとされるが、拒否されたため手にした長刀で止めを刺し討ち取ったとある。

説得の際に待遇の向上を条件に見逃すよう懇願される俗説が見える。

俗説では横田村詮を悪玉として強調する節があり、仕官当初から目をかけていた人物に交渉材料として更なる待遇の向上が提案されたとは考えにくい。

 

横田村詮の最期には諸説あり、奥の間へと退いた人物を横田村詮と知らずに討ち取ったとする説が見える。

奥の間は明かりが無く暗闇で人物の目視が効かず、周囲は喧噪で騒然となっていたことから横田村詮の声も確認ができなかったため、中村一忠を狙う賊とだけ認識し早々に討ち取ったとしている。

伯耆志でも横田村詮に対して多大な恩があったことは世間でも広く知られていたようで、横田村詮と知らずに斬ったものと後世に伝えている。

この説では横田村詮への説得の描写は見られず、長刀を帯刀しており、宴席で中村一忠横田村詮の騒動を目撃していないことから慶事の宴席には参加せず会場外で警備に当っていたと推測される。

 

同日、横田村詮の誅殺に対して横田方の遺臣が伯耆国飯山城(丸山の内膳丸とも)に立て籠もり内戦状態となる。(米子城騒動、中村騒動、横田騒動)

騒動では大将のひとりとして横田方に加勢している。(伯耆志)

 

1603年12月17日(慶長8年11月15日)

出雲国から堀尾氏の援軍が到着し騒動は鎮圧される。

堀尾吉晴横田主馬助の死を以て反乱の終息とし、戦闘を停止した横田方残党の助命を中村一忠へ伝えている。

中村一忠は暫く納得いかなかったようであるが、後に堀尾吉晴の提案に従い横田方残党の降伏を認めている。

降伏が認められたことから中村家の家臣へと復帰している。

騒動の後日、横田村詮から長年に亘って自身の与り知らないところで俸禄の加増など厚遇を受けていたことを聞かされ、横田村詮の殺害に関して取り返しのつかない不忠を行ってしまったと強い後悔の念を伝えている。

 

騒動後は安井清一郎天野宗杷道家長右衛門と共に駿河で取り調べを受けている。

横田村詮の殺害に直接関わる形となった上、反乱軍へ加勢していたが罪は不問とされた。

伯耆志での禄高は500石とするが、中村家覚書には1,500石と弓20挺を預かったことが記載されている。

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