武将列伝帖
こんどう ぜんえもん
近藤善右衛門
【氏】不明【姓】不明【名】近藤【通称】善右衛門【諱】不明
別 名
-
出 身
不明
官 途
右衛門尉
所 属
中村氏
生 年
不明
没 年
不明
- 列 伝 -
中村一氏が横田村詮を家臣として迎えた頃、横田村詮の推挙によって中村家に召抱えられたとされる。
中村家の家臣として登用された後、横田村詮からは俸禄の加増など中村一氏に対して強く働きかけられていたようで、特段の厚遇を受けていたことが伺える。
俸禄加増など厚遇の経緯について本人に直接知らされることはなかったとされ、横田騒動の後に多大な恩義について耳にすると横田村詮を討ったことに関して取り返しのつかない不忠を行ったと強く後悔したとも云われている。
中村一氏の没後、関ヶ原の戦いの戦功として嫡男の中村一忠に伯耆国が与えられるとこれに従い、伯耆入りしている。
伯耆国の領国経営について横田村詮と安井清一郎、天野宗杷らの対立が鮮明になると安井清一郎は横田村詮を陥れるため、度々の讒言を行ったと云われている。
1603年(慶長8年)、度重なる讒言に惑わされた中村一忠は正室(浄明院)との慶事における不手際を理由に自ら刀を抜き、横田村詮に斬りかかるが致命傷までには至らず討ち漏らしている。
(中村一忠が若く非力であったため打ち損じたとされる記述もあるが、杭瀬川の戦いにおいて中村方の軍が惨敗し敗走ている最中、中村一忠の個の武力には目を見張る活躍があった事が記されるため、単純に若く非力であったとする説は採らず横田村詮が剛の者であったからとする説もある。併せて常山紀談の内容が中村一忠に対する過大な脚色とする余地もある)
横田村詮の推挙によって中村家の家臣となった恩から、奥の間へと退いた横田村詮への説得を試みるが、拒否されると手にした長刀で止めを刺し討ち取ったとある。
これには異説があり、
・横田村詮から待遇の向上を条件に見逃すよう懇願される説(この記述では横田村詮を驕った人物として強調している)
・横田村詮と知らずに討ち取った説(暗闇であったとは言え、仕官の際に推挙してくれた人物の特徴や声を忘れるのか?)
また、慶事に長刀の帯刀自体が不自然であるとして、横田村詮の侍童から奪った刀で討ち取ったなど騒動については真偽の程を勘定しなければ諸説が多数に存在する。
この事件が後日の横田騒動へと発展するが騒動中の目立った動きは記されていない。
騒動後の吟味では横田村詮を討ったことに関してのお咎めは不問とされたようで、中村家覚書には引き続き1,500石と弓20挺を預かった事が記述されている。