所 属
松平
▶
中村
よみがな
人物名
どうけ ちょうえもん
道家長右衛門
別 名
どうけ ちょうざえもん
道家長左衛門
別 名
みちなが ちょうえもん
道長長右衛門
別 名
みちがみ ちょうざえもん
道上長左衛門
官 途
右衛門尉、左衛門尉
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1604年(慶長9年)
氏
不詳
姓
不詳
諱
不詳
列 伝
中村一忠の正室、浄明院の世話係として松平氏より江戸から遣わされた人物。
伯耆民談記では「東都(駿府)より忠一簾中への御附人なり」とある。
中村家からの俸禄は500石。
伯耆志 粟島村の条 小祠 七 制札の項
1601年11月19日(慶長6年10月25日)
中村一忠によって会見郡粟島村の粟島神社が修復され、25石余の寄進が行われている。
連名で署名された証文があったとするが元和年間に焼失とある。(伯耆志)
粟島神社の社伝では25石7斗の寄進としている。
伯耆志 奥陰田村の条 小祠の項
村の南の山腹にあり。東西五十間、南北四十間の社地なり。古証文三通あり。
犬田村神主居屋敷手作分之内三石前被指遣候間可得其意候者也
慶長六年極月廿六日
村 一兵(判)
道 長右(判)
石 茂兵(判)
神主 甚兵衛殿
三家は中村氏の臣にて村田市兵衛、道家長右衛門、石川茂兵衛なり。
1602年2月17日(慶長6年12月26日)
犬田村の山王大明神社の社領について神主の手作分と屋敷を併せた3石を認める証文に連署している。
伯耆志 前城主中村氏の条
続群書類従 中村一氏記
一、道家長右衛門、五百石。道家長兵衛、200石。家康様より奥へ御付候て御越被成候。故、江戸にて切腹被仰付候。
1603年12月16日(慶長8年11月14日)
伯耆民談記では安井清一郎へと積極的に与しており、横田村詮に対して安井清一郎、天野宗杷と共に飛び掛かると散々に切り付けている。
一説には横田村詮の刀を持った侍童を斬り伏す描写も見られる。
1604年(慶長9年)
騒動後は安井清一郎、天野宗杷、近藤善右衛門と共に駿河で取り調べを受けている。
安井清一郎、天野宗把と共謀し横田村詮がを殺害したとする罪で切腹の沙汰となり、弟の道家長兵衛が連座して江戸にて切腹となった。
一説には横田騒動が起こった遠因に浄明院の日頃の傲慢な態度も関係したとも伝えている。
世話係として浄明院を諌めきれなかった責任から身代わりとしての処罰とも推測される。