所 属
中村
よみがな
人物名
やすい せいいちろう
安井清一郎
別 名
やすい せいじゅうろう
安井清十郎
伯耆志での表記
別 名
やすい せいいちろう
安井清市郎
伯耆民談記での表記(駿河での聴取)
別 名
やすい よじゅうろう
安井与十郎
鳥取藩史での記述
別 名
やすい せいじろう
安井清次郎
官 途
不詳
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1604年(慶長9年)
氏
不詳
姓
不詳
諱
不詳
列 伝
横田村詮の存命時は禄高700石、横田村詮の殺害後は執政家老となり6,000石に加増。
伯耆志 前城主中村氏の条
(略)(村詮)今一忠若年なれば一栄と共に後見すべき由命を蒙りければ其威遠近に振びしか終に貪戻の心を発し侫邪を喜び忠良を郤く。因て服部小膳、藪内匠と云う二人忠臣たりしがこれを憤て他国に走る。又、領内の寺社領地他を検する事骨を削るか如く。大山等これが為めに衰うと云えり。諸事傍若無人なれ共其威に恐れて会て忠言を達する者なし。一忠若しと云えども安らかぬ事に思われけるに近臣に安井清十郎と云う者あり。殊に村詮を疾くみけるか彼を討ち殺し給う可しと密に一忠に勧めけり。一忠兼て思う所も有りければ河猟と披露し馬場村八幡の社前にて十一人の臣と会議せられけり。
慶長八年十一月十四日、賀儀の事あり因て老臣役人に宴を賜う。日暮て各退きけるに一忠、村詮を呼返えし一紙を取て江戸より御書至れり拝見せよと與えらる村詮畏て戴く所を一忠抜打ちに三刀許切付らる。村詮二ノ間に走り出るを安井清十郎支えけるにいかがしたりけん。村詮に腕を切付られて引退く。一忠大音を揚て其者を討留よと下知せられければ番士、近藤善右衛門、長刀を取て追駈け終に村詮を斬倒す。善右衛門は村詮に深き恩有ければ彼と知らば殺さざりしならんと世の人云いあえりける。(略)
1603年(慶長8年)
横田村詮に対して強い殺意を抱いており、今すぐにでも殺すべきと中村一忠を焚きつけている。
中村一忠も日頃から思う所があったとし、川狩りを称して馬場村の八幡神社へ赴くと11名の家臣と横田村詮の殺害についての密議を行ったとしている。(伯耆志)
1603年12月16日(慶長8年11月14日)
深手を負った横田村詮が奥の間へ逃れるのを阻止するため押さえつけようとした際、逆に腕を切られ負傷したためその場から離れている。(伯耆志)
一説に横田村詮の刀を持った侍童を道家長左衛門と共に斬り伏せる描写も見えるが、横田村詮に反撃され右こぶしを斬られている。
伯耆志 前城主中村氏の条
伯耆志 前城主中村氏の条
(略)安井清十郎、公儀を忘るる罪に帰す。清十郎これを聞て家に籠て出仕せず。度々召さるれとも命を奉ぜず。一忠大に怒り依藤孫兵衛に「捕え来るべし。防がば討棄てよ」と命ぜらる。孫兵衛至りけるに門を閉たり。即壁上に登る。清十郎、何者ぞと呼で出つる所を強弓にて射たりしか一の矢は中らず二の矢にて射止めけり後、江戸より御書至て道家長右衛門(此方に従て江戸より来れり)同長兵衛、天野宗範等死を賜う。且、江戸の内命を以て依藤半左衛門、河毛備後を執政とす。(依藤氏は倉吉の在番たり。河毛は松崎の領主たり。主家断絶の後、江戸の命を受けて自殺す。鵜殿氏これに座して改易せらる。駿府政事録を考うるに中村氏の金銀財宝を掠むと見えたれば彼時鵜殿氏二人の苞苴を受けたるなるべし)
続群書類従 中村一氏記
一、安井清一郎、右の談合(今のまま)柱故、六千石遣わされ被申。国を仕置申し付けられ候を一両年も過ぎ候て家康様被仰出候ば若手の一学に悪しき知恵が入申候とて、切腹被仰付候。
時、家に火をかけ奥より料理の間通台所へ火をかけに参候所を依藤孫兵衛、鷹部屋の上に居申候か。弓にて射申候えば、屋根の板持に中り清一郎には中り不申候もとり申候所を入候へば中り申候。それより奥へ参り父子共に切腹仕り焼死仕候。
1603年12月(慶長8年11月)末頃
横田村詮の殺害後、米子の執政を命じられる。
禄高も700石から6,000石へと大幅に加増され横田村詮の地位を受け継いだと推定される。
同時に騒動の顛末を記した書簡が江戸へと報告されることとなり、使者に河毛備後が立てられている。
1604年(慶長9年)
騒動の翌年、徳川家康から中村一忠を拐かしたとする罪で切腹を仰せ付かり、その後は追及を恐れて屋敷に籠り出仕しなかった。
中村一忠から再三の出仕要請にも応じず、これに怒った中村一忠は依藤孫兵衛を討手として遣わせ、抵抗するようであれば殺害しても構わないと命じている。
依藤孫兵衛が屋敷へと到着し、出仕するよう説得を受けるが門を固く閉ざし説得に応じなかった。
屋敷の奥に引き籠っていたが何者かが塀の上に登り始めたことに怒り、縁側へ出たところを依藤孫兵衛に狙われ弓矢を射かけられている。
一射目は外れ、二射目が命中し殺害されたとしている。(伯耆志)
依藤孫兵衛の行動には諸説あり、依藤孫兵衛が登ったのは塀の上ではなく本宅の屋敷或いは隣家の屋根ともしている。
続群書類従(中村一氏記)では鷹部屋の屋根に登り弓を射かけられたが1射目は外れ、2射目が命中し、奥の間で子と共に切腹し焼死したとする。
異説に矢傷を負っても屋敷から出ようとせず、業を煮やした依藤孫兵衛は屋敷に火をかけ、炎に燻されて外に出てきたところを捕らえ城内にて切腹させられた説なども見える。
伯耆民談記では天野宗杷、道家長右衛門、近藤善右衛門と共に駿河で取り調べを受けた後に切腹とある。
大山寺の僧、豪円とは懇意の間柄と伝え、大山寺の意向を強く受ける立場であったと推定される。
横田村詮の殺害に関して大山寺の直接的な介入は見えないものの、検地による大山寺領の一部没収に対して恨みを持った豪円から暗殺を唆された可能性もあり、行動を起こす一因になったとも推測される。