武将列伝帖

いとう はんざえもん / いとう はんえもん

依藤半左衛門 / 依藤半右衛門

【氏】不明【姓】不明【名】依藤【通称】半左衛門【諱】不明

別 名

出 身

不明

官 途

左衛門尉、右衛門尉

所 属

中村氏

生 年

不明

没 年

不明

 

- 列 伝 -

中村家の重臣。禄高は7,300石。

中村記などでは「左衛門」、伯耆民談記では「右衛門」を通称としている。

 

伯耆民談記 巻之二 都邑の部 倉吉の条 闕所蔵之事の項

今、沖田屋敷の山の端に有り。方六尺程の蔵なり。

当国前太守中村氏の老臣、依藤半右衛門、中村伊豆守両人の闕所道具を収めし蔵也。

此両人并に河毛備後守等、太守中村落城の時、金銀其外諸道具隠し置くこと露顕し公聴に達し、慶長十八年十月十三日、駿府に於て御穿鑿の上、家康公の御勘気を蒙り、同十六日、三人の屋敷破却仰付られ此時の隠し物置きし所なり。

依藤は生害し、河毛は内藤若狭守清次に御預けとなり、中村は追放と成り、駿河清見寺に馳け入て剃髪すといえり。依藤も伊豆守も当所の住人なる故、二人の闕所物、一箇の蔵に治むるとかや。

其時の記録、元禄年中の火災に焼失して今はなし。年々の修復は当所の町役なり。鍵は年寄役の者預かる。河毛は松崎の領主なりし故、闕所蔵松崎にもあり。両所闕所の検使は此所の御代官、山田五郎兵衛といい伝う。前々は巡見の衆、御通りの時は蔵改めの事ありしかども近代は絶て其事なし。

 

1604年(慶長9年)、中村家の筆頭家老であった横田村詮の暗殺後、河毛備後と共に伯耆国米子城の執政へと任じられている。

同年、伯耆国八橋城の城主であった中村栄忠が伯耆国打吹城へ移ったため、城番として八橋城へと入城している。

 

1613年(慶長18年)10月16日、中村家の財産を横領し秘匿していたことが露顕したために摘発され、屋敷の破却(財産の没収)を申し付けられている。

同日、自害とある。(伯耆民談記)

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