所 属

中村

よみがな

人物名

よりふじ はんざえもん

依藤半左衛門

 

初 名

よりふじ うまのすけ

依藤牛之助

鳥取藩史で初名とする

 

別 名

よりふじ はんえもん

依藤半右衛門

伯耆民談記、続群書類従 中村一氏記での表記

 

別 名

よりふじ はんえもん

寄藤半右衛門

駿府政事録での表記

 

別 名

よしふじ はんえもん

徳藤半右衛門

群書類従 中村一氏記での表記

官 途

左衛門尉(伯耆志、中村記)、右衛門尉(伯耆民談記、続群書類従、駿府政事録)

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

1613年11月27日(慶長18年10月16日)

朝臣

長安

列 伝

中村家の家老。源秀房を祖とする依藤氏の一族を出自とする。

中村家での禄高は伯耆志、中村記で7,300石。

続群書類従(中村一氏記)では6,000石、後に加増され7,350石とする。

伯耆志や中村記、鳥取藩史では「半左衛門」、伯耆民談記、続群書類従(中村一氏記)では「半右衛門」を通称とする。

 

伯耆志 前城主中村氏の条

(略)横田氏に籠る者には弟主馬之助、三好右衛門兵衛、同左内、同玄蕃、高井左吉右衛門、安井久右衛門、同田平、近藤善右衛門柳生五郎右衛門同治郎吉、矢木甚兵衛、桜間甚吉、石川茂平、鵜飼治右衛門等を始めとして九十四人、其外徒士足軽都合二百余人。表門裏門を固め、大将主馬之助は朱の小具足に白き陣羽織を着し軍扇を以て八方を下知す。(略)

横田が表門の討手は一忠の物頭、依藤半左衛門藤江蔵人、戸川丹波、矢野助之進、室田與左衛門。大勢を卒して馳向う。矢野、室田、下知して小門を打破らんとする所に内より高井左吉右衛門、十文字槍を以て突て出ず。矢野、槍を合せて戦いけるが終に突き立てられ手を負て引退く。(略)

 

1603年12月16日(慶長8年11月14日)

中村一忠によって横田村詮が誅殺される。

横田村詮殺害の報せを受けた横田主馬助は横田家の遺臣二百余名と飯山砦内膳丸とも)に立て籠もる。

 

1603年12月17日(慶長8年11月15日)

出雲国月山富田城から堀尾吉晴の援軍が大龍山總泉寺へ到着し、増援の到着を以て中村方の総攻撃が開始される。

横田方の立て籠もる書院責口(表門)を攻略する大将のひとりとして部隊の指揮にあたっている。(伯耆志)

鳥取藩史では翌日も騒動が続いており、次子の依藤長守柳生宗章を討った功績から自身と河毛備後の両名に中村一忠より伯耆国の執政を命じられている。

 

伯耆志 中村氏臣物頭以上

七千三百石 依藤半左衛門

 

続群書類従 中村一氏記

一、其後、徳藤半右衛門、仕置申し付られ千石加増遣わし申され七千三百五十石に成申候。後に断り申され三奉行に被仰付候。

 

伯耆志 前城主中村氏の条

(略)江戸の内命を以て依藤半左衛門河毛備後を執政とす。(依藤氏倉吉の在番たり。河毛松崎の領主たり。主家断絶の後、江戸の命を受けて自殺す。鵜殿氏これに座して改易せらる。駿府政事録を考うるに中村氏の金銀財宝を掠むと見えたれば彼時鵜殿氏二人の苞苴を受けたるなるべし)

 

1604年(慶長9年)

中村家の執政家老であった横田村詮の殺害後は安井清一郎が米子の執政となっていたが、安井清一郎も切腹の沙汰となり、河毛備後と共に伯耆国米子城の執政へと任じられている。

伯耆国打吹城に在番していたが、伯耆国八橋城の城主であった中村栄忠打吹城へ移ったため後任として八橋城への在番となった。(伯耆志、伯耆民談記)

 

伯耆志 前城主中村氏の条

(略)勘解由廿歳、若狭十六歳なり。勘解由は大法院善休常佐居士、若狭は立行院梅窓常薫居子と号す。一忠の墓の左右に葬る。又、霊室に君臣三人の像あり。二人各依藤氏に書を遺せりと云えり。後、堀尾吉晴、依藤を招き、両人が殉死、いかにも止むべきに無慚なる事哉いかで見遁がしたるぞとて大に叱られけるとなり。

 

1609年6月12日(慶長14年5月11日)

中村一忠が急逝する。

 

1609年6月13日(慶長14年5月12日)

中村一忠の小姓であった垂井勘解由服部若狭が殉死する。

両名から遺書を預かっていたとすることから小姓の職務を監督する立場にあったことが伺える。

後日、堀尾吉晴に呼び出され、垂井勘解由服部若狭両名の殉死を止められなかったことについて叱責を受けている。

 

伯耆民談記 巻之二 都邑の部 倉吉の条 闕所蔵之事の項

今、沖田屋敷の山の端に有り。方六尺程の蔵なり。

当国前太守中村氏の老臣、依藤半右衛門、中村伊豆守両人の闕所道具を収めし蔵也。

此両人并に河毛備後守等、太守中村落城の時、金銀其外諸道具隠し置くこと露顕し公聴に達し、慶長十八年十月十三日、駿府に於て御穿鑿の上、家康公の御勘気を蒙り、同十六日、三人の屋敷破却仰付られ此時の隠し物置きし所なり。

依藤は生害し、河毛は内藤若狭守清次に御預けとなり、中村は追放と成り、駿河清見寺に馳け入て剃髪すといえり。依藤も伊豆守も当所の住人なる故、二人の闕所物、一箇の蔵に治むるとかや。

其時の記録、元禄年中の火災に焼失して今はなし。年々の修復は当所の町役なり。鍵は年寄役の者預かる。河毛松崎の領主なりし故、闕所蔵松崎にもあり。両所闕所の検使は此所の御代官、山田五郎兵衛といい伝う。前々は巡見の衆、御通りの時は蔵改めの事ありしかども近代は絶て其事なし。

 

駿府政事録

(慶長十八年十月)十三日、鵜殿兵庫頭、寄藤半右衛門川村備後守、中村伊豆守、蒙御気色。其故者中村一角(号伯耆守伯耆守護)死去之刻、金銀其外諸道具隠置㕝依露顕し云々。

(慶長十八年十月)十五日、(略)

(慶長十八年十月)十六日、鵜殿兵庫助、寄藤半右衛門川毛備後守、中村伊豆守、屋敷破却。兵庫助被召預土井大炊助。川毛備後守被召預内藤若狭守云々。

 

1613年11月24日(慶長18年10月13日)

中村家の財産を横領し秘匿していたことが露顕したために摘発される。(伯耆民談記)

 

1613年11月27日(慶長18年10月16日)

駿府にて不正蓄財の件が穿鑿され、徳川家康の怒りを買ったことから屋敷の破却(財産の没収)を申し付けられ自害したとある。(伯耆民談記)

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