所 属
中村
横田
よみがな
人物名
やぎゅう じろきち
柳生次郎吉
別 名
やぎゅう じろきち
柳生治郎吉
伯耆民談記での表記
官 途
不詳
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1603年12月17日(慶長8年11月15日)
氏
不詳
姓
不詳
諱
不詳
列 伝
剣豪、柳生宗章の従者。
横田騒動では横田方に与した柳生宗章に従い、兄弟子の柳生次郎八と共に戦場で奮戦する。
続群書類従 中村一氏記
一、其夜、内膳一門別而目かけられ候。衆、内膳屋敷へ取篭り申候。大将は横田主馬勢、三好右衛門(孫養子)、柳生五郎(五百石)、打太刀次郎八、次郎吉、田賀井左吉右衛門(千石、足軽三千人)、安藤久右衛門(七百石)、世忰今平、近藤九右衛門(五百石)、櫻間甚吉(二百石)、石原茂兵衛(百石)、鵜飼次右衛門(右衛門守)、矢木甚兵衛(五百石)、其外数多篭り申候。横田勘解由は作州湯治仕、直に立のき加藤左馬殿へ参られ五百石遣わされ候。
一、書院責口一番槍、矢野助之進、室田与左衛門と田賀井左吉右衛門鎗合、左吉右衛門十文字、与左衛門甲の内突き十文字横手にて顋脣を突き申候。故、後まで痕あり。助之進と五郎鎗合申候。五郎十文字、作中堂来にて後代仕る由。遠山小兵衛(六百石)。䏻人にて誉申仁にて候えども五郎渡合討死仕候。 次郎七(三百石)、小姓一角前へ参り申候ば只今五郎書院にて火花を散らし戦申候。我等ならでは五郎太刀打仕もの御座あるまじきと申候えば諸人目を引き不言口言とて何も笑い申候へば即ち参り候て五郎と渡合、五郎をと甲斐を切り由候。次郎七は五郎に切殺され申候。五郎切可弟子也。滝川三九郎、五郎と渡合手負申候。吉田佐太夫鎗合申候。五郎、田賀井左吉右衛門、安藤久右衛門、同今平、餘多の人数切突殺。五郎、打太刀次郎八、次郎吉、三人ながら手柄。討死仕候。
伯耆志 前城主中村氏の条
(略)横田氏に籠る者には弟主馬之助、三好右衛門兵衛、同左内、同玄蕃、高井左吉右衛門、安井久右衛門、同田平、近藤善右衛門、柳生五郎右衛門、同治郎吉、矢木甚兵衛、桜間甚吉、石川茂平、鵜飼治右衛門等を始めとして九十四人、其外徒士足軽都合二百余人。表門裏門を固め、大将主馬之助は朱の小具足に白き陣羽織を着し軍扇を以て八方を下知す。(略)
伯耆志では柳生宗章に続き「同次郎吉」としている事から柳生一族の人物と考えられる。
続群書類従(中村一氏記)では柳生次郎八を打太刀と付記していることから兄弟子にあたり、柳生宗章に師事していたと考えられる。
1603年12月16日(慶長8年11月14日)
横田村詮殺害の報せを受けた横田主馬助は横田家の遺臣二百余名と伯耆国飯山砦(内膳丸とも)に立て籠もった。
1603年12月17日(慶長8年11月15日)
出雲国月山富田城から堀尾吉晴の援軍が大龍山總泉寺へ到着し、増援の到着を以て中村方の総攻撃が開始される。
柳生宗章に従い書院責口周辺の防衛に当たっていたと推測され、柳生宗章、柳生次郎八、自身の三名で大きな手柄を挙げたとしている。(続群書類従 中村一氏記)
伯耆志では柳生宗章による特攻が行われた際に登場しないが、続群書類従(中村一氏記)では柳生宗章、柳生次郎八、自身の戦功と討死を伝える。
同じ頃、搦手側の安藤今平も戦死したことで横田方の戦線は崩壊し、横田主馬助の自刃を以て騒動は鎮圧された。
一部には横田騒動で亡くなった将兵も併せて祀られていると伝えている。