武将列伝帖
よこた しゅめのすけ
横田主馬助
【氏】源【姓】朝臣【名】横田【通称】主馬助【諱】不明
別 名
横田主馬(よこた しゅめ)
出 身
不明
官 途
主馬寮
所 属
三好氏⇒中村氏
生 年
不明
没 年
1603年12月17日(慶長8年11月15日)
- 列 伝 -
中村家の執政家老、横田村詮の子。禄高は3,000石。
中村記では今習外様ノ座頭と評している。(中村記(弐) 稲葉書房 昭和49年6月)
文献によっては弟とする記述が見える。
1603年12月16日(慶長8年11月14日)、安井清一郎、天野宗杷らの謀略によって横田村詮が殺害されると横田一門の二百余名、客将の柳生宗章らと共に飯山の砦(内膳丸とも)に立て籠った。
騒動では朱の具足に白の陣羽織を纏い、軍配を手に将兵を指揮したと伝わる。
共に挙兵した将兵には三好右衛門兵衛、三好左内、三好玄蕃、高井左吉右衛門、安井久右衛門、安井大平、近藤九右衛門、柳生次郎吉、矢木甚兵衛、桜間甚吉、石川蔵兵衛、鵜飼治右衛門などが見える。
立て籠った横田方に対し中村方の戦力だけでは反乱を鎮圧することができなかったとされるが、堀尾氏の援軍が到着するまでは目立った戦闘はなく投降を促すなど説得が行われていたと推測される。
この際、客将であった柳生宗章に対して戦場から退去するよう促しているが柳生宗章の意思は固く、最期まで横田家に尽くしている。
同年12月17日(慶長8年11月15日)の午刻、中村一忠の援軍要請に応じた堀尾氏の援軍が大龍山總泉寺に到着。
中村方の軍勢が大手側、堀尾方の軍勢が搦手側から攻撃を仕掛け、挟撃を受ける形となると次第に支えきれず城に火を放ち自刃した。
最期は横田家譜代の家臣、桜間甚吉によって介錯を受けたとある。