所 属

中村

池田

よみがな

人物名

はやし もんだゆう

林文太夫

 

別 名

はやし もんだゆう

林門大夫

伯耆志での表記

 

別 名

はやし もんだゆう

林紋太夫

官 途

不詳

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

不詳

不詳

不詳

列 伝

中村家の家臣。伯耆国江美城の城代に任じられる。

勇将が揃う中村家の家臣団の中で大剛の侍と賞賛され、矢野助之進と並ぶ豪傑と評された。

中村一忠から宴席で舞の感想を求められるが返答に窮する場面が描かれており、生粋の武辺者で武芸には秀でるが芸能にはまるで興味がなく疎かったとしている。(中村記)

 

続群書類従 中村一氏記

一、矢野助進、鳥毛の切図指し物取て返し大勢の敵に立向かい申候。

林文太夫、赤縨、金の桔梗笠のたし取て返し梅田大蔵、母衣中間故手負退きかね候。

文太夫、助け候ばんと仕り候を助進呼かけ申され候。梅田を助け候ばんより此大勢の敵を防ぎ候えど申され候故、大勢の敵の中へ文太夫、馬を乗込候えば文太夫若党、佐藤与三、同六蔵、兄弟良く付き候て大勢の敵とも追払い申候えば総崩れ仕り候を、助進文太夫、追討に数多仕り候所へ家康様午ノ刻に茶臼山御着陣なされ、是は何事に軍仕り候や。大事の前の小事なり。その陣引候えと御上使に本多中務殿、右御意の通申渡され其陣引候えと仰られ候時、此所をば両人に御任せなされ候へ有馬玄蕃手を仰つけられ候えと申候えば良き言葉を申候とて、後の御誉なされ。其後井伊侍臣殿より両人の者、御囉なされた儀とて薬師の道喜まいられ、藤堂和泉殿より渡邉勘兵衛を以御呼なされ候えとも式部少輔相果、一学幼少に御座候えば見養育申と断り申、何方より御申候ても不参候。

 

続群書類従 中村一氏記

一、矢野助進林文太夫、両人今度大垣陣手柄働き以惣勝になり申候。式部少輔存生に候わば一廉心付も可在之候えとも御果なされ、其上一学殿幼少に候えば心づけもなり難く候とて、中村彦左衛門横田内膳、河毛惣左衛門、藪内匠、依藤半右衛門、其外家老共相談仕られ候て矢野助之進、加増組頭。林文太夫、加増、感状あり組頭申付けられ、其後伯州江尻城預け被申候。

 

1600年10月20日(慶長5年9月14日)

杭瀬川の戦いでは東軍に属し中村一栄を大将に参戦する。

西軍の島清興の計略により突出した中村一忠らの部隊が大混乱に陥る中、単騎で敵軍を食い止め奮戦していた矢野助之進を発見し、赤色の幌に金の桔梗笠を手に取って返し救援へ向かうと深手を負った梅田大蔵を救出している。

その後、追撃してきた明石全登蒲生頼郷の部下数名を討ち取り、怯んだ敵方に矢野助之進と共に追撃を試みたが赤坂本陣から撤退の伝令を受け、不服に思い腹を立てつつも命令に従い戦場から退いている。

関ヶ原の合戦後、褒賞として加増の上、組頭へと出世している。

 

1601年(慶長6年)春

中村一忠が伯耆国へ入国とある。

中村一忠の伯耆国転封に従い伯耆国江美城の城預かり(城代)に任じられている。

通説に江美城から発掘された金箔鯱瓦は吉川氏に贈られた瓦と推定されているが、中村一忠の転封に際して駿河国駿府城より持ち込まれた可能性を推測した場合、関係する人物として考えられる。

 

続群書類従 中村一氏記

(略)(上田権右衛門)鉄砲にて撃ち殺し申候所へ林文太夫、くくりへ入り候所を鉄砲にて撃ち申候。胸板いむけ方前の草釣り穿れ、三中り撃ち倒され無生になり申候を家来の若党、佐藤与三、文太夫足を取引つり申候えば権之丞三百石、雪を口へ入申候えば生き返り申候。鉄砲は中り候えども抜け不申候。回帰さしを打たし候故無生に成申候。其足半ためし故、抜け不申候。又、文太夫入り申候て若党与三、摺に取付き止め申候えば「侍は可死所にて不死ば生甲斐はなく候」とて刀に手をかけ申候故、立退き申候えば右の方へ筋交に飛入申候えば鵜飼次右衛門立向、切合申候へば次右衛門方が八切少背き申所を組み上になりも気付けに首を取り着、次右衛門刀持一学に見せ申候えば于今はしめぬ高名と申され候。刀は三条小鍛冶宗近もて御座候。文太夫申候を帯刀殿衆見申され帯刀殿内武藤七右衛門(千石 小姓頭)飛込申候所を安藤今平槍にて突き殺し申し候。同突いて落合助九郎(三百石 小姓)飛込足軽二三人切手柄仕り候所を是も今平槍にて突き殺し申候。

 

伯耆志 前城主中村氏の条

(略)上田権右衛門討死し其他の手負数を知らず。一忠の臣、林門大夫、此手にて鉄砲疵を被りけるに強て乗入、鵜飼治右衛門を討取り。続て吉晴の臣、武藤七右衛門乗入りけるを安藤今平と名乗て一槍に突伏せけり。次に落合助九郎飛入つて足軽二三人斬倒せば安藤渡合落合を討取りけり(略)

 

1603年12月16日(慶長8年11月14日)

中村一忠によって横田村詮が誅殺されたことから横田方の遺臣が伯耆国飯山城(丸山の内膳丸とも)に立て籠もり内戦状態となる。(横田騒動)

 

1603年12月17日(慶長8年11月15日)

出雲国月山富田城から堀尾吉晴の援軍が大龍山總泉寺へ到着する。

堀尾方の増援と共に横田方の立て籠もる裏門(台所口)を攻め立てたが、堀尾方の上田権右衛門が銃撃され討死し、堀尾方は多数の負傷者を出している。

自身も銃弾を浴び一度は生死の境を彷徨うが権之丞によって口に雪を含まされると蘇生し、そのまま敵陣に攻め込み鵜飼治右衛門を討ち取っている。

自身の活躍に堀尾吉晴の家臣、武藤七右衛門が続けて攻め入るが安藤今平によって一槍で討ち取られている。

武藤七右衛門に続き堀尾方の落合助九郎が飛び入り、雑兵二、三人を斬り倒し安藤今平に挑むが返り討ちに遭い、堀尾吉晴は勇将の相次ぐ討死に大いに怒っている。

中村記では鉄砲による銃撃を受けたが大事には至らず、そのまま横田方の鵜飼次右衛門を討ち取っている。

 

続群書類従 中村一氏記

中村一学果候て跡目無御座候。故、輝政縁より吉村喜斎御付られ候て助進文太夫呼に参り候て、両人の者御抱為さるべきの由、助進、加増。文太夫、足軽御預け為さるべく候。(略)

 

1609年(慶長14年)

中村一忠が死去し中村家は改易となる。

中村家の改易後、池田輝政から多くの中村家旧臣が招かれ池田家へ仕えたとしている。

一説には中村家の改易後、暫らくは因幡方面を流浪していたとされ、矢野助之進の推挙があり池田家へ仕官したとしている。

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