武将列伝帖

はやし もんだゆう

林文太夫 / 林紋太夫

【氏】不明【姓】不明【名】【通称】文太夫【諱】不明

別 名

出 身

不明

官 途

不明

所 属

中村氏

生 年

不明

没 年

不明

 

- 列 伝 -

中村家の家臣。伯耆国江美城の城番とする記述も見える。

 

中村家の家人から大剛の侍と賞賛され、武芸に秀でた勇将が揃う中村家の家臣団の中でも矢野助之進と並び豪傑と評された人物。

杭瀬川の戦いでは島清興の計略により中村方が大混乱に陥る中、矢野助之進と共に奮闘する姿が描かれている。(常山紀談)

 

宴席で中村一忠から舞についての感想を求められた際、返答に窮する場面が描かれており、生粋の武辺者で武芸には秀でるが芸能にはまるで興味がなく疎かったとしている。(中村記)

 

1600年10月20日(慶長5年9月14日)、杭瀬川の戦いでは中村一栄を総大将に東軍として参戦。

西軍の参軍、島清興(島左近)の挑発に乗り突出した中村一忠らの部隊が急襲され大混乱に陥る中、単騎で敵軍を食い止め奮戦していた矢野助之進を見つけると加勢に駆け付け、先の戦闘で深手を負った梅田大蔵を救出し退却させている。

この時、赤色の桔梗笠を頂き先陣の部隊の救援へ向かったことが記されている。(常山紀談)

 

追撃してきた明石全登蒲生頼郷の配下数名を討ち取り、敵が怯むと勝ちに乗じて矢野助之進と共に追撃を試みるが赤坂本陣より無駄な戦力の消耗を避ける旨の伝令を受け、不服に思い腹を立てつつも命令に従い戦場から退いている。

 

中村一忠の伯耆国転封に従い江美城の城主(城番)に任じられたことが記述に見える。

通説に江美城から発掘された金箔鯱瓦は吉川氏に贈られた瓦と推定されているが、中村氏の転封に際して駿河国駿府城より持ち込まれた可能性を推測した場合、関係する人物の一人として考えられる。

 

1603年12月16日(慶長8年11月14日)、中村家筆頭家老の横田村詮中村一忠によって誅殺されると内乱(米子城騒動、横田騒動、中村騒動)が勃発。

中村方として奮戦する最中、鉄砲による銃撃を受けるが当たり所が良かったようで、大事には至らず横田方の鵜飼次右衛門を討ち取っている。(中村記)

内乱が終結し中村家が改易されると因幡方面へ流浪し、後に池田輝政へと仕えている。

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