武将列伝帖

なかむら ひこえもん かずしげ / なかむら ひこざえもん うじつぐ

中村彦右衛門一栄 / 中村彦左衛門氏次

【氏】不明【姓】不明【名】中村【通称】彦右衛門【諱】一栄

別 名

出 身

不明

官 途

右衛門尉、左衛門尉

所 属

中村氏

生 年

不明

没 年

1604年(慶長9年)

 

- 列 伝 -

豊臣家三中老の一人、中村一氏の弟。子に伊豆守の中村栄忠

伯耆国米子城の城主、中村一忠中村一氏の嫡男で甥にあたる。

「中村一栄」とする場合の通称は彦右衛門、「中村氏次」とする場合の通称は彦左衛門とされ、近年、古文書の発見により前者の通称は誤りと指摘されているが同一人物と推定される。

 

1590年(天正18年)の小田原征伐の軍功によって兄の中村一氏が駿河国駿府14万石を拝領すると、駿河国三枚橋城の城主を任じられた。

 

1600年(慶長5年)7月、会津の上杉景勝征伐戦(会津征伐)には病床にあった中村一氏の陣代として参戦、小山評定後は東軍に合流し石川貞清の籠もる尾張国犬山城桂市兵衛織田四郎左エ門鈴木勝元らと攻め開城させている。

同年9月14日、杭瀬川の戦いでは西軍の島清興(島左近)の計略によって大きな被害を出した。

甥の中村一忠有馬豊氏らの軽率な行動も相まり、家老の野一色助義、中村家家人の中村新介らを始め28名がこの時の戦いで討たれたとされる。

翌日9月15日、関ヶ原の戦いでは南宮山に陣を構えた西軍の毛利秀元率いる部隊の押さえとして甥の中村一忠らと垂井に陣を構えた。

尚、この時に南宮山へ陣を構えた毛利軍だが東軍に内通していた吉川広家の率いる部隊に進軍を妨害され、関ヶ原の戦いの本戦では最後まで矛を交えることは無かったとされる。

 

関ヶ原の戦いの後、甥の中村一忠が伯耆国17万5千石の加増転封となると、伯耆国八橋城に3万石を領し城主となった。

中村一忠の伯耆国転封に際しては11歳と幼少のため、執政家老の横田村詮と共に後見役を担ったとされるが積極的に藩政に関わったとする記述は残っていない。

 

1603年(慶長8年)、執政家老の横田村詮が殺害された横田騒動では中村家の一大事にも関わらず一切の動きがなく、騒動は隣藩の堀尾氏の助力により鎮められている。

このことから中村一忠を廃して伯耆国17万5千石を手に入れるため騒動を起こした黒幕の一人として名が挙がる。

 

杭瀬川の戦いでは中村新介ら中村家の家人が討ち死にしている。

中村一氏の陣代として参戦していたことからこの中村家の家人(中村類葉)は一栄の一族とも考えられ、策に嵌り無謀な戦闘を続けた中村一忠らに恨みを持っていた可能性も推測できる。

(同じ理由から杭瀬川の戦いで一族の野一色頼母を失った野一色采女中村一忠らに恨みを持っていたとされる)

 

1604年(慶長9年)、八橋城にて没する。

騒動の翌年に没していることから病などの理由により騒動への対応ができなかったことも推測される。

中村一忠に対しては日頃の行いについて死の直前まで危惧していたとも伝わる。

墓地は鳥取県東伯郡琴浦町八橋の体玄寺。

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