所 属

三好

中村

よみがな

人物名

なかむら ひこえもん かずしげ

中村彦右衛門一栄

 

別 名

なかむら ひこざえもん うじつぐ

中村彦左衛門氏次

徳川家康書状に宛名として記述

 

別 名

なかむら ひこえもん かずまさ

中村彦右衛門一正

関ヶ原合戦絵巻での表記

法 名

萬祥寺殿大岳周碵大居士

官 途

右衛門尉(伯耆志)、左衛門尉(続群書類従 中村一氏記)

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

1604年(慶長9年)

朝臣

一栄

列 伝

豊臣家に仕えた三中老、中村一氏の弟。子に中村栄忠

中村一氏の嫡男、中村一忠は甥にあたる。

駿河国では禄高30,000石。中村一忠の伯耆国入封後は筆頭家老として禄高13,000石とする。

諱の「一栄」は複数の読み方が伝えられ、「かずしげ」「かずまさ」「かずよし」「かずひで」「かずます」「かずたか」など文献や地域により異なっている。

 

伯耆志 前城主中村氏の条

(略)天正十二年、一氏、和泉岸和田城を守て根来衆徒と戦う。

同十八年、小田原合戦に先鋒たり。山中城を破る。

同年、駿河を賜て府中に在城す。十四万二百石なり。(藩翰譜に據る中村系図に十三万三千石とす)

弟、彦右衛門一栄に三万石を分て沼津に在城せしむ。

 

1590年(天正18年)

小田原征伐の軍功によって兄の中村一氏が駿府140,200石を拝領する。

自身は駿河国三枚橋城の城主に任じられ、30,000石を拝領する。

 

伯耆志 前城主中村氏の条

文禄四年、五千石を加えられる其書、鳥取中村氏に蔵す。

 

駿河国内御蔵入五千石之事目録別紙有之為加増令扶助訖全可領知候也

文禄四年 七月十二日 (朱印)

中村式部少輔どのへ

 

太閤の朱印なり。太閤末年に三中老の一人に命ぜらる。(二人は堀尾氏、生駒氏)

 

1595年(文禄4年)

豊臣秀吉より中村一氏へ5,000石が加増される。

直領地(御蔵入)を拝領したことで駿河国一国の代官となる。

 

伯耆志 前城主中村氏の条

慶長五年、東照宮会津御進発の時、駿府を過ぎさせ給う。六月廿五日なり。

村越茂助、命を伝う。一氏、其臣横田内膳村詮が宅を御館として餐応し奉り、病を扶けて拝謁し、弟一栄を軍に従わしむ。子、一学(伯耆守是なり)に長光の刀を賜う。一栄の兵、野一色、竹田、甘利等討死す。後、一氏、駿府に歿す。(関原軍記に東照宮に謁せし六月廿五の夜歿すと記し一説には八月六日とす)

 

1600年8月4日(慶長5年6月25日)

上杉景勝征伐戦(会津征伐)において、徳川家康の駿府宿営に城下の横田村詮の屋敷を御館に供しており、徳川家康を餐応し、中村一氏横田村詮中村一忠らが拝謁している。

拝謁の際、病に伏していた中村一氏は自身の名代として弟を遣わすことを約束している。(伯耆志 前城主中村氏の条)

 

1600年8月25日(慶長5年7月17日)

中村一氏が死去。

 

1600年9月2日(慶長5年7月25日)

下野国小山にて徳川家康と諸将で評定が行われたとする。(小山評定)

評定後、中村一氏の陣代として東軍に合流している。

 

徳川家康書状(慶長5年7月27日付)

就式部少輔死去。其国諸仕置等並軍法以下之儀、式部少輔如被申付無沙汰有間敷候。恐々謹言。

七月廿七日 家康(花押)

中村彦左衛門尉殿

横田内膳正殿

 

1600年9月4日(慶長5年7月27日)

徳川家康より自身と横田村詮に宛てた書状が発給されている。

中村一氏の死後、領国の経営と軍備に関し中村一氏の施政方針を疎かにしないようにと伝えている。

 

1600年10月1日(慶長5年8月24日)

西軍へ与して尾張国犬山城に立て籠もる石川貞清に対して開城勧告が行われる。

石川貞清は勧告に応じなかったため、中村一忠桂市兵衛織田四郎左エ門鈴木勝元らと犬山城を攻撃している。

東軍は攻撃を仕掛ける一方、犬山城に在城する西軍諸将から内応の約定を取り付けている。

犬山城には竹中重門、後の米子城の城主、加藤貞泰黒坂鏡山城の城主、関一政が在城していたとする。

 

1600年10月9日(慶長5年9月3日)

関一政の説得により石川貞清犬山城から退去したため開城となる。

 

1600年10月20日(慶長5年9月14日)

杭瀬川の戦いでは西軍の島清興の計略によって大きな被害を出している。

自身の采配による失態に端を発するかは不明だが、中村一忠有馬豊氏らの軽率な行動も相まり、家老の野一色助義、中村家家人の中村新介らを始め28名の将がこの日の戦いで討たれたとされる。

 

1600年10月21日(慶長5年9月15日)

杭瀬川での失態を理由に中村方の関ヶ原への参戦が認められなかったため、中村一忠らと垂井に陣を構えると南宮山に布陣する毛利秀元吉川広家らに対する押さえとして毛利軍と対峙している。(常山紀談)

 

伯耆志 前城主中村氏の条

(略)当家の老臣横田内膳村詮は(村詮を或は村政に作る今他の証文などの自筆に據)本阿波高屋城主三好山城守の臣なりしが彼家亡びて流浪しけるに何の頃か一氏に仕う。知略有る者にて度々功を立てるが故に三千石を賜り老職となる後数度加増有て六千石を領し一氏の妹を妻とす。今一忠若年なれば一栄と共に後見すべき由命を蒙りければ其威遠近に振びしか終に貪戻の心を発し侫邪を喜び忠良を郤く。

 

1600年12月~1601年1月(慶長5年12月)

会津征伐の折、横田村詮徳川家康に取り付けた約定通り、中村一忠に伯耆国175,000石(180,000石とも)が与えられ、伯耆守に任じられている。

中村一忠は伯耆国を賜ったが齢10歳(11歳とも)と幼少であったため、自身を筆頭家老、横田村詮を執政家老として徳川家康から後見役を直々に命じられている。

 

伯耆志 中村氏臣物頭以上

一万三千石 中村彦右衛門

中村彦右衛門一栄一忠の叔父にて八橋城主たり。(民諺記に三万石とす。沼津にて三万石を領すと藩翰譜に見えたれば左もあるべし)子、伊豆守あり。始末は八橋倉吉の下に記す。

 

中村一忠が伯耆国へ入封すると伯耆国八橋城に30,000石を拝領したとある。(伯耆民談記)

伯耆志では伯耆国移封後の禄高は13,000石とあり、伯耆民談記が八橋城30,000石とするのは駿河国沼津の三枚橋城に在城した頃の混同としている。

 

1603年12月16日(慶長8年11月14日)

中村一忠によって横田村詮が殺害される。

横田村詮殺害の報せを受けた横田主馬助柳生宗章ら横田一党が伯耆国飯山城(或いは内膳丸)に立て籠もり騒乱となる。

 

1603年12月17日(慶長8年11月15日)

出雲国から堀尾吉晴の援軍が到着すると中村方の総攻撃が開始され、横田主馬助の自刃を以て騒動は鎮圧される。

 

1604年(慶長9年)

八橋城にて没する。

菩提寺は鳥取県東伯郡琴浦町八橋の体玄寺。

法名は「萬祥寺殿大岳周碵大居士」、一部に「萬祥寺殿大岳院周磧代大居士」ともされる。

筆頭家老の立場であったが米子での騒動に対して一切の行動が見えないことから、1603年(慶長8年)頃には病など重篤な状態にあり騒動への対応ができなかったことが推測される。

甥の中村一忠に対しては日頃の行いについて自身の死の直前まで危惧していたとも伝えている。

 

陰謀説に中村一忠を排し伯耆国175,000石を手に入れるため騒動を起こした黒幕とする説も見える。

杭瀬川の戦いにおいて部下の野一色助義竹田大右衛門竹田五郎兵衛甘利某、家人の中村新介ら多くの部下や家人が命を落とした要因に中村一忠らの無謀な戦闘にあったとして恨みを持っていた可能性を指摘している。騒動直後に死去している点も病からではなく騒動の穿鑿を恐れての自害であったとも囁かれる。

但し、杭瀬川での指揮は自身の采配であったとする記述も見えることから、中村一忠らの独断専行による進軍が直接事態に関与したとするかは断定出来ない。

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