所 属

中村

よみがな

人物名

のいしき たのも すけよし

野一色頼母助義

 

別 名

のいしき ながより

野一色長頼

 

 

通 称

のいしき たのも

野一色頼母

東百官を称した呼称

官 途

不明

出身地

近江国坂田郡野一色

生 年

1548年(天文17年)

没 年

1600年10月20日(慶長5年9月14日)

不詳

不詳

助義

列 伝

中村家の家臣。中村一氏の家老で禄高は8,000石。

妻は黒川盛治の娘。次男に野一色助重、三男に野一色義重、四男に野一色助忠、五男に野一色助政、女子には中村一氏の養女となった娘があった。

長男は委細不詳としているが中村家の家臣に野一色采女があり、自身の戦死後は石高と家老職をそのまま受け継いでいる。

 

続群書類従 中村一氏記

一、天正十二年正月元日に根来雑賀方より岸和田へ朝込。

同三日、式部方より五ヶ所の敵の附城働き色々あり。式部内、河毛惣左衛門、野一色頼母、矢野弥左衛門、早川助右衛門、皆々手柄つかまつり候。

 

1584年2月12日(天正12年1月1日)早朝

岸和田周辺に根来衆、雑賀衆が侵入する。

 

1584年2月14日(天正12年1月3日)

中村一氏の部将として敵襲の迎撃に当り、戦功を挙げた武将のひとりに挙げられる。

 

続群書類従 中村一氏記

中村式部少輔一氏美濃大垣働之事

一、慶長五年九月十三日、野一色頼母、藪内匠、池田三左衛門殿、福島大夫殿、本多中務殿、御座候所へまいり候て申し候ば、今度ぎふをもての川越御手柄なされ候む。(略)

 

1600年10月19日(慶長5年9月13日)

翌日の岐阜表の合戦に向けた軍議に参加している。

美濃国大垣城を攻略する部隊が編成され自身が大将、参軍を藪内匠としている。

 

続群書類従 中村一氏記

中村式部少輔一氏美濃大垣働之事

一、慶長五年九月十四日午刻に城より軍瀬川越え苅田つかまつり敵どもまいり候。彼竹田五郎兵衛見候て番所の屋根の軒に手をかけ飛び上がり申候を足軽大将共怒り申候へば槍を取り、飛び降り苅田仕候者二、三人貫き詰候て(略)竹田五郎兵衛討死仕候。

野一色頼母、藪内匠、池田三左衛門殿、福島大夫殿、本多中務殿、御座候所へまいり候て申し候ば、今度ぎふをもての川越御手柄なされ候む。(略)

一、右の様子若き衆見申候て柵を破り何も出申候を先手大将野一色頼母、藪内匠止めに参られ軍瀬川越申まじきとし申され候えとも聞申さず越し候へば敵立向合戦始め申候合成。(略)野一色頼母八千石、金の三幣指物、馬印鳥毛二つ団子。(略)

一、野一色頼母、軍瀬川傍に只一人残り申され候所を海北市郎右衛門親、鉄砲にて撃ち申候。(略)

頼母墓、今に其所に御座候。

 

伯耆志 前城主中村氏の条

(略)一栄の兵、野一色、竹田、甘利等討死す。

 

1600年10月20日(慶長5年9月14日)

関ヶ原の戦いでは中村一氏の陣代であった中村一栄の部将として従軍している。

杭瀬川の戦いでは西軍の島清興の挑発に乗り中村一忠らの部隊は突出する形となったが、中村一忠らは次々と敵兵を討ち戦功を挙げると更に進軍を続けたため、後続の友軍も敗走する敵兵を追撃する形で進軍する事となった。

しかし、敵方の退却は島清興による偽装であり、隊列が伸び切った所を島清興らの伏兵に狙われている。

自身の部隊も渡橋を終えた辺りで伏兵に遭い、乱戦となった末に宇喜多家の家臣、浅賀三左衛門によって討ち取られた。

 

勇将の多い中村家の中でも特に優れた豪傑と評される人物であったが、乱戦の中を騎乗にて奮戦する最中、深田の泥濘に馬が足を取られ体勢を崩したところを浅賀三左衛門に討ち取られたとされる他、内海北市郎右衛門の鉄砲により頭を撃ち抜かれ死亡したとする説も見える。

乗馬には矢野助之進と同様に金の三幣の指物を付けていたとしている。

 

首級は友軍の堀尾忠氏の部隊によって取り返され、着用していた鎧兜と共に鎧塚に葬られたと伝わる。

鎧塚は岐阜県大垣市赤坂西町に残る兜塚とされる。

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