武将列伝帖
たるい かげゆ のぶまさ
垂井勘解由延正
【氏】不明【姓】不明【名】垂井【通称】勘解由【諱】延正
幼 名
彌蔵(やぞう)
出 身
不明
官 途
勘解由使
所 属
中村氏
生 年
1585年(天正13年)※24歳
1589年(天正17年)※20歳
没 年
1609年(慶長14年)5月11日
- 列 伝 -
垂井彌右衛門の子で伯耆国米子城の城主、中村一忠の小姓。禄高は1,500石。
中村記では石高の他、歩行侍十人も添えられている。(中村記(弐) 稲葉書房 昭和49年6月)
1609年6月12日(慶長14年5月11日)、中村一忠が急逝すると同じく小姓であった服部邦友と共に殉死している。
中村一忠、服部邦友と共に遺体は常住山感應寺へ埋葬され手厚く葬られたと伝わり、辞世の句を残している。
「いつ迄も 先をかけんと思ひしに おくれはせこそ 戀しかりけれ」(伯耆民談記 昭和2年10月 佐伯元吉)
「いつとても 先を懸けむとおもいしに おくれ走こそ かなしかりけれ」(伯耆民談記)
「いつとても 先をかけんと思いしに おくればせこそ 悲しかりけれ」(米子の歴史)
「嬉しやな 二世とちぎりし手枕に まどろむひまの上露」(伯耆米子城:佐々木謙)
現在、中村一忠の墓碑が建立されている場所にはかつて御影堂が建ち三名の木像が祀られていたとされるが、御影堂は朽ち、中村一忠の三百五十回忌に合わせて大五輪の墓碑が建てられると木像は本堂に移され祀られることとなった。
法号は「大法院善休常作」
享年は24歳とされるが一部では20歳としている文書も見える。