所 属
中村
よみがな
人物名
たるい かげゆ のぶまさ
垂井勘解由延正
童 名
やぞう
彌蔵
中村記、群書類従での幼名
通 称
たるい かげゆ
垂井勘解由
中村記の禄高一覧での表記
法 号
大法院善休常作居子
官 途
勘解由使
出身地
不詳
生 年
1590年(天正18年)
没 年
1609年6月13日(慶長14年5月12日)
氏
不詳
姓
不詳
諱
延正
列 伝
垂井彌右衛門の子で伯耆国米子城の城主、中村一忠の小姓。禄高は1,500石。
続群書類従 中村一氏記
一、垂井勘解由、千五百石。内五百石、家中の者に隔し大判五枚遣わし被申かちの者十人預け被申(略)
群書類従では自身の俸禄から一族に500石を分けたとあり、足軽10名が添えられている。(群書類従)
中村記でも同様の記述が見える。(中村記)
伯耆志 前城主中村氏の条
(中村伯耆守)慶長十四年の春、京都に至り。其夏帰国有つて身体例ならず。治療を進むれとも其験も無きに強て漁猟を催され霖雨の頃度々城外に出てられけるが五月十一日又外より帰城有りしに疾我かに劇しくして医薬を進むる間もあらず。
侍者僅かに一、二人周章する中、小姓垂井勘解由、蓐に倚て伺うに既に事終れり。上下の悲慟、言語道断なり。年二十(廿一歳とするは誤なり。感應寺日長上人の慶長十一年自筆の棟札に寅年中村伯耆守と記せり。然れば天正十八年の誕生にて今年二十歳也)。
十二日感應寺に葬る。導師は日長上人なり。青龍院一融源心大居士と諡す。
(略)小姓、垂井勘解由、服部若狭、二人は愁傷限り無く各一室に籠り題目のみ唱えしが、共に殉死の心を決し勘解由が兄、善兵衛が松江に在けるを招きて仔細を告くるに善兵衛も止むる事を得ず。かくて二人一世永訣の酒を飲みかわし、十三日黎明、感應寺に至り庭上に畳を敷かせ座して短冊を取り出し辞世の歌を書く。
垂井勘解由延正
いつとても 先をかけんと思ひしに おくれはせこそ 悲しかりけれ
嬉しやな 二世と契りし手枕に まどろむひまの蓮の上露
かねてより 思ひ定めし道なれば 君諸共にゆくぞ うれしき
やがて肌押脱ぎ迭に聲を掛けて腹を切れば介錯後ろより首を落とす。
惜哉、勘解由廿歳、若狭十六歳なり。勘解由は大法院善休常佐居士、若狭は立行院梅窓常薫居子と号す。一忠の墓の左右に葬る。又、霊室に君臣三人の像あり。二人各依藤氏に書を遺せりと云えり。後、堀尾吉晴、依藤を招き、両人が殉死、いかにも止むべきに無慚なる事哉いかで見遁がしたるぞとて大に叱られけるとなり。
1609年6月12日(慶長14年5月11日)
漁猟から帰城した中村一忠の体調が急変する。
薬も間に合わず、寝床に寝かされた中村一忠に言葉をかけるも既に亡くなっていた。
1609年6月13日(慶長14年5月12日)
中村一忠の死に痛く悲しみ、部屋に籠り題目を唱えている。
中村一忠への殉死を決意すると松江に居た兄の垂井善兵衛を呼び、決心の程を伝えている。
垂井善兵衛から思い止まるよう説得を受けるが聞き入れず、同じく殉死を決意した服部邦友と酒を酌み交わしている。
1609年6月14日(慶長14年5月13日)
常住山感應寺の境内に畳が敷かれ、辞世の歌を詠み終えると切腹し介錯されたとある。
法号は「大法院善休常作居子」。
遺体は中村一忠、服部邦友と共に常住山感應寺へと埋葬され、手厚く葬られたと伝わる。(伯耆志)
伯耆志では享年20歳、1590年(天正18年)生まれとして享年21歳は誤りとしている。
続群書類従(中村一氏記)では享年を19歳としており、伯耆の郷土史では享年24歳、1585年(天正13年)生まれとする説も見える。
中村一忠の墓碑が祀られている場所にはかつて御影堂が建ち、三名の木像が祀られていたと伝える。
往時の御影堂は朽ち果てたため、中村一忠の三百五十回忌の折に御影堂跡地に大五輪の墓碑が建てられ、木像は本堂に移されたとしている。
辞世の句は伯耆志に2句が並べて添えられているが後世の書物では何れか1句のみであり、著者の解釈によって記述や内容が一部変えられている。
「いつ迄も 先をかけんと思ひしに おくれはせこそ 戀しかりけれ」(伯耆民談記 昭和2年10月 佐伯元吉)
「いつとても 先を懸けむとおもいしに おくれ走こそ かなしかりけれ」(伯耆民談記)
「いつとても 先をかけんと思いしに おくればせこそ 悲しかりけれ」(米子の歴史)
「嬉しやな 二世とちぎりし手枕に まどろむひまの上露」(伯耆米子城:佐々木謙)