所 属

中村

よみがな

人物名

たるい ぜんべえ

垂井善兵衛

官 途

不詳(兵衛尉)

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

不詳

不詳

不詳

列 伝

伯耆国米子城の城主、中村一忠の小姓であった垂井延正の兄。

 

伯耆志 前城主中村氏の条

中村伯耆守を五月)十二日、感應寺に葬る。

(略)小姓、垂井勘解由服部若狭、二人は愁傷限り無く各一室に籠り題目のみ唱えしが、共に殉死の心を決し勘解由が兄善兵衛が松江に在けるを招きて仔細を告くるに善兵衛も止むる事を得ず。かくて二人一世永訣の酒を飲みかわし、十三日黎明、感應寺に至り庭上に畳を敷かせ座して短冊を取り出し辞世の歌を書く。

(略)後、堀尾吉晴、依藤を招き、両人が殉死、いかにも止むべきに無慚なる事哉いかで見遁がしたるぞとて大に叱られけるとなり。

 

1609年6月13日(慶長14年5月12日)

中村一忠常住山感應寺へと埋葬される。

垂井延正から中村一忠への殉死の決意を告げられ、思い止まるよう説得するが聞き入れられなかった。

 

後日、依藤半左衛門堀尾吉晴に呼び出され、垂井勘解由服部若狭の殉死を止められなかったことについて叱責を受けていることから両名の殉死についての顛末を堀尾吉晴に伝えた人物と推測される。

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