伯耆国 会見郡
じょうじゅうざん かんのうじ
常住山感應寺
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻二 大正5年8月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)
伯耆米子城(昭和41年 佐々木謙)
米子の歴史(昭和42年8月 伯耆文化研究会)
米子の伝承と歴史(昭和48年3月 生田彌範)
わが郷土 米子とその周辺の郷土誌(昭和58年1月)
正伝普平山菩提樹院妙興寺(平成17年4月初版※平成24年12月改訂※平成27年4月大改訂)
概 略
関ヶ原の戦いの後、中村一忠が伯耆国へと入り伯耆国米子城を完成させた頃、執政家老の横田村詮により中村家の菩提寺として建立されたと伝わる。寺領は300石。
大龍山總泉寺と同じく米子城の城濠を隔てた南側、出雲国側からの侵入に備えた砦としての機能を持った設計とされるが大龍山總泉寺とは違い、戦いに使われたとする記録は見られない。
横田村詮は中村家が駿河国府中(駿府)を治めていた頃より静岡感應寺十一世の日長上人と親交を深めていたとされ、建立にあたっては城主の菩提寺とすることで寺格を高めた上、日長上人を懇請招聘し鄭重に迎えている。
横田村詮の熱意に打たれた日長上人は開祖に日蓮聖人の直弟子六人のひとり、佐渡阿闍梨日向上人を、二祖に静岡感應寺再興の師である日朝上人を、自らは三世として城主の菩提寺としての寺格を高め、寺観を整えたと伝える。
1609年(慶長14年)5月11日、中村一忠が二十歳で急逝すると垂井延正、服部邦友の小姓二名も殉死し、共に手厚く葬られたと伝え、小姓はそれぞれ辞世の句を残している。(垂井延正の句については書籍により全く別の句が見える。また、書籍により句の表現が違う)
【 垂井勘解由延正 】(法号 大法院善休常作 24歳)
「いつとても 先を懸けむとおもいしに おくれ走こそ かなしかりけれ」(伯耆民談記)
「いつとても 先をかけんと思いしに おくればせこそ 悲しかりけれ」(米子の歴史)
「嬉しやな 二世とちぎりし手枕に まどろむひまの上露」(伯耆米子城)
【 服部若狭邦友 】(法号 立行院梅窓常薫 16歳)
「かねてより おもひ設けし事なれは 君さき立てて行くそう礼しき」(伯耆民談記)
「かねてより 思い定めし道なれば 君諸共にゆくぞ うれしき」 (米子の歴史)
中村一忠の墓碑が建立されている場所にはかつて御影堂が鎮座し三名の木像が祀られていたとされるが、御影堂が朽ちたため三百五十回忌に合わせて大五輪の墓碑が建てられると木像は本堂に移され祀られることとなった。
静岡、米子、和歌山の三寺は「常住山感應寺」と称し、日本法華三感応寺と呼ばれている。
一部に横田村詮が自身の菩提寺とするために建立したとする書籍もあるが、この説は誤りと考えられる。
当時の日長上人の地位に於いては家老職の菩提寺を開山するにあたり、静岡から地理的に大きく劣る未開の地であった米子へ招聘する事は礼を失するに極まりない行為であり、熱烈な法華宗徒でもあった横田村詮がそのような非礼を行ったとは到底考え難い。
この説では1603年(慶長8年)の中村騒動で横田村詮が殺害されると遺骸は横田家の菩提寺とする当寺に埋葬されたと続き、1609年(慶長14年)に中村一忠が急逝すると今度は城主の菩提寺とするため日逞上人から日長上人へ横田村詮の遺骸を普平山妙興寺へ改葬するよう依頼したとする。(この時、日逞上人と日長上人は囲碁の対局をしている)
しかし、日逞上人は1604年(慶長9年)に遷化(既に亡くなっている)していることから、1609年(慶長14年)に日長上人へ横田村詮の遺骸を普平山妙興寺へ改葬するように依頼したとする話は辻褄が合わない。
そのため中村騒動で殺害された横田村詮の遺骸を最初は当寺に埋葬し、中村一忠の急逝後に普平山妙興寺へ改葬したとする説に信憑性は無く、説を裏付ける史料の出典元も記されていない。
誤った説が広まった背景には騒動の後、横田村詮の遺骸を預かったのは感應寺住職の日長上人であったことから、日長上人が住職を務めた当寺へ埋葬したとする説に変化した可能性が考えられる。
日長上人は横田村詮の遺骸を預かると普平山妙興寺へ急ぎ使者を出し、厳粛な葬儀を執り行うよう伝えており、葬儀の後は普平山妙興寺の境内に埋葬されたとある。
写 真
2013年9月6日、2016年10月10日