所 属
中村
よみがな
人物名
はっとり わかさ くにとも
服部若狭邦友
童 名
きんや
金彌
「かなや」とも
童 名
きんあみ
金阿彌
中村記、群書類従に記述され「かなあみ」とも
通 称
はっとり わかさ
服部若狭
中村記の禄高一覧での表記
法 号
立行院梅窓常薫居子
官 途
若狭守
出身地
不詳
生 年
1593年(天正20年/文禄元年)
没 年
1609年6月13日(慶長14年5月12日)
氏
不詳
姓
不詳
諱
邦友
列 伝
伯耆国米子城の城主、中村一忠の小姓。侍臣や近臣とする記述も見える。
続群書類従 中村一氏記
(略)服邉若狭、千石。内五百石、大判五枚其外金銀切々拝領つかまつり候(略)
中村家での禄高は群書類従、中村記で1,000石、伯耆志では1,500石と記す。
伯耆志 前城主中村氏の条
(略)小姓、垂井勘解由、服部若狭、二人は愁傷限り無く各一室に籠り題目のみ唱えしが、共に殉死の心を決し勘解由が兄、善兵衛が松江に在けるを招きて仔細を告くるに善兵衛も止むる事を得ず。かくて二人一世永訣の酒を飲みかわし、十三日黎明、感應寺に至り庭上に畳を敷かせ座して短冊を取り出し辞世の歌を書く。
いつとても 先をかけんと思ひしに おくれはせこそ 悲しかりけれ
嬉しやな 二世と契りし手枕に まどろむひまの蓮の上露
服部若狭邦友
かねてより 思ひ定めし道なれば 君諸共にゆくぞ うれしき
やがて肌押脱ぎ迭に聲を掛けて腹を切れば介錯後ろより首を落とす。
惜哉、勘解由廿歳、若狭十六歳なり。勘解由は大法院善休常佐居士、若狭は立行院梅窓常薫居子と号す。一忠の墓の左右に葬る。又、霊室に君臣三人の像あり。二人各依藤氏に書を遺せりと云えり。後、堀尾吉晴、依藤を招き、両人が殉死、いかにも止むべきに無慚なる事哉いかで見遁がしたるぞとて大に叱られけるとなり。
1609年6月12日(慶長14年5月11日)
中村一忠が急逝する。
1609年6月13日(慶長14年5月12日)
中村一忠の死に痛く悲しみ、部屋に籠り題目を唱えている。
同じく小姓であった垂井延正と殉死を決意し、酒を酌み交わしている。
1609年6月14日(慶長14年5月13日)
常住山感應寺の境内に畳が敷かれ、辞世の歌を詠み終えると切腹し介錯されたとある。
法号は「立行院梅窓常薫居子」。享年は16歳とする。
続群書類従(中村一氏記)では享年を18歳としている。
遺体は中村一忠、垂井延正と共に常住山感應寺へと埋葬され、手厚く葬られたと伝わる。(伯耆志)
中村一忠の墓碑が祀られている場所にはかつて御影堂が建ち、三名の木像が祀られていたと伝える。
往時の御影堂は朽ち果てたため、中村一忠の三百五十回忌の折に御影堂跡地に大五輪の墓碑が建てられ、木像は本堂に移されたとしている。
辞世の句は書物で異なり、著者の解釈によって記述や内容が一部変えられている。
「かねてより おもひ設けし事なれは 君さき立てて行くそう礼しき」(伯耆民談記)
「かねてより 思い定めし道なれば 君諸共にゆくぞ うれしき」 (米子の歴史)