伯耆国 会見郡
ふひょうざんみょうこうじ
普平山妙興寺
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻二 大正5年8月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)
正伝普平山菩提樹院妙興寺(平成17年4月初版※平成24年12月改訂※平成27年4月大改訂)
年 表
1564年
永禄7年
堺会合衆で火薬商を営んだ豪商、油屋常言の弟である瑞応院日逞上人が未開の地であった当地に庵を建て開山と伝える。
1593年頃
文禄年間
布教活動と同時に29年の歳月をかけて寺院の景観を整えたとある。
1603年
慶長8年
騒動の最中は城への出入りが極端に制限されていたとされるが中村家の菩提寺であった常住山感應寺の住職、日長上人の扱いは別格とされ混乱する城内への立ち入りも可能であったと伝える。
騒動を知った日長上人は専用の駕籠で城内へと入り、手討となった横田村詮の亡骸を受け取ると当寺へ急ぎ、日逞上人に厳粛な葬を行うよう依頼している。
日逞上人によって横田村詮の亡骸は鄭重に弔われた後、当寺の境内へと埋葬されたと伝える。
1604年
慶長9年
日逞上人が遷化。89歳。
概 略
広普山妙国寺に由来し普平山(冨平山とも)菩提樹院妙興寺と号する。
伯耆国米子城の城主、中村一忠の執政家老であった横田村詮の菩提寺。
1564年(永禄7年)3月28日、堺会合衆のひとりで火薬商を営んだ豪商、油屋常言の弟である瑞応院日逞上人による開山を伝える。
日逞上人は法華経布教のため南蛮交易で使用されていた油屋の堺船に乗り、西へと下り米子に入るが当時の米子周辺は一面が松林で集落も点在する程度の未開の地であったとされる。
未開の地であった米子に庵を建て(庵を建てた日が永禄7年3月28日とされる)、布教活動の一方で堺方面から建材や人夫などの資材を海路より調達し、開墾、整地を進め29年という歳月をかけて寺院の景観を整えたとある。
布教活動を行うと同時に周辺の動向を探る諜報活動も行っていたようである。
未開の地であった米子へ多くの人員、物資を調達できたのは収集した情報を交換するなど日逞上人が堺方面との交流に努めた成果とする。
日逞上人は米子騒動で謀殺された横田村詮の葬を厳修した後、1604年(慶長9年)4月28日、89歳で遷化された。
現在も境内には横田村詮の墓碑が祀られているが、本堂東側に建立されている墓碑は近年複製されたレプリカとなる。
第七世本是院日法上人によって1690年頃(元禄年間)に再建された墓碑は風化が激しく自立は難しいようで本堂正面の向かって左手側、犬走りの上のアクリルケース内に寝かされた状態で保管されている。
横田村詮が弔われた当初の墓碑を記す資料はないが、小さな木造の祠様であったのではないかと推測されている。
写 真
2013年11月14日