所 属
中村
よみがな
人物名
かわけ びんごのかみ
河毛備後守
別 名
かわけ びんごのかみ
川毛備後守
駿府政事録(慶長18年10月16日)に記載
別 名
かわむら びんごのかみ
川村備後守
駿府政事録(慶長18年10月13日)に記載
通 称
かわけ びんご
河毛備後
伯耆志の一部に記載
官 途
備後守
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
諱
不詳
列 伝
中村家の家老。中村家での禄高は8,500石。
伯耆国松崎城の城主に任じられ、横田村詮の殺害後は依藤半左衛門と共に米子の執政を命じられている。
蓮門精舎旧詞 西向寺の条
西向寺 同末 同州河村郡松崎村 瑞運山西向寺
起立者往昔伯州之大守中村式部殿一族河毛備後守殿
菩提寺建立之時寺號名瑞運寺然中比住持僧寺建立時相改名西向寺瑞運寺駿州有之由傳聞
當寺之開山稱蓮社念譽壽心
慶長十八癸丑五月廿三日遷化移住次第附法等不知。
中村家筆頭家老の中村一栄に次ぐ禄高が宛がわれており、蓮門精舎旧詞では中村一氏の一族としている。
河毛系図(東大史料編纂所 河毛スエ原蔵)では浅井一族の出としている。
伯耆志 前城主中村氏の条
(略)斯くて村詮誅罰の謀主なればとて安井清十郎に執政を命ぜられ、今度の次第逐一に記して江戸に達せらる。使者は河毛備後なり。発途の時、其妻備後に向て江戸にて如何に言上そ給うにやと問えば備後、女の聞く可き事に非ずと云う。強て問いかけるに只事の次第を言上に及ぶ由を語るに内膳行悪しと云えどもかく迄の大事に及ばれし事、江戸の思召いかがあるべきや。且、内膳は江戸の命有て君の後見なり。又、君未だ若年に坐まず事なれば言上の趣、用意有るべきにて候。只、内膳天下の禁制たる蒼鷹を飼えり。他の罪に優り候可しと云いければ備後理に服して出にけり。江戸に至りて御老中に達しければ一忠参府有る可き由命有て鵜殿氏(兵庫助)を差添えて返されけり。備後帰国して復命しければ一忠、依藤半左衛門を具して参府あり(鵜殿氏同伴たるべし)。命有て品川駅に逼塞せらる因て屢陳謝せられければ事漸く解て大徳公に謁し帰国せらる。
1603年(慶長8年)末頃~1604年(慶長9年)
横田騒動の収束後、事件の顛末を江戸へ報告するための使者となる。
出立前、妻から御上に対してどのような申し開きをするかを強く問われ、いくつか問答を用意していることを明かしている。
江戸での報告を終えると鵜殿兵庫助を伴い帰国する。
伯耆志 前城主中村氏の条
(略)江戸の内命を以て依藤半左衛門、河毛備後を執政とす。(依藤氏は倉吉の在番たり。河毛は松崎の領主たり。主家断絶の後、江戸の命を受けて自殺す。鵜殿氏これに座して改易せらる。駿府政事録を考うるに中村氏の金銀財宝を掠むと見えたれば彼時鵜殿氏二人の苞苴を受けたるなるべし)
1604年(慶長9年)
中村家の執政家老であった横田村詮の殺害後は安井清一郎が執政家老となっていたが、安井清一郎も切腹の沙汰となり、依藤半左衛門と共に米子の執政に任じられている。
1609年6月12日(慶長14年5月11日)
中村一忠が急逝する。
駿府政事録
(慶長十八年十月)十三日、鵜殿兵庫頭、寄藤半右衛門、川村備後守、中村伊豆守、蒙御気色。其故者中村一角(号伯耆守伯耆守護)死去之刻、金銀其外諸道具隠置㕝依露顕し云々。
(慶長十八年十月)十五日、(略)
(慶長十八年十月)十六日、鵜殿兵庫助、寄藤半右衛門、川毛備後守、中村伊豆守、屋敷破却。兵庫助被召預土井大炊助。川毛備後守被召預内藤若狭守云々。
伯耆民談記 巻之二 都邑の部 倉吉の条 闕所蔵之事の項
今、沖田屋敷の山の端に有り。方六尺程の蔵なり。
当国前太守中村氏の老臣、依藤半右衛門、中村伊豆守両人の闕所道具を収めし蔵也。
此両人并に河毛備後守等、太守中村落城の時、金銀其外諸道具隠し置くこと露顕し公聴に達し、慶長十八年十月十三日、駿府に於て御穿鑿の上、家康公の御勘気を蒙り、同十六日、三人の屋敷破却仰付られ此時の隠し物置きし所なり。
依藤は生害し、河毛は内藤若狭守清次に御預けとなり、中村は追放と成り、駿河清見寺に馳け入て剃髪すといえり。依藤も伊豆守も当所の住人なる故、二人の闕所物、一箇の蔵に治むるとかや。
其時の記録、元禄年中の火災に焼失して今はなし。年々の修復は当所の町役なり。鍵は年寄役の者預かる。
河毛は松崎の領主なりし故、闕所蔵松崎にもあり。両所闕所の検使は此所の御代官、山田五郎兵衛といい伝う。前々は巡見の衆、御通りの時は蔵改めの事ありしかども近代は絶て其事なし。
伯耆志 中村氏臣物頭以上
八千五百石 河毛備後
(略)河毛備後は松崎を領す後、罪を獲て自殺す。
1613年11月24日(慶長18年10月13日)
中村一忠の死後、中村家の財産を横領し秘匿していたことが露顕したために摘発される。
駿府で取り調べが行われ、徳川家康の怒りを買ったとある。(駿府政事録、伯耆民談記)
1613年11月27日(慶長18年10月16日)
屋敷の破却(財産の没収)を申し付けられ、身柄は内藤清次に預けられることとなった。(駿府政事録、伯耆民談記)
伯耆志では後に自害したことが記されている。(伯耆志)