所 属
中村
よみがな
人物名
ふじい すけべい
藤井助兵衛
官 途
不詳(兵衛尉)
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
諱
不詳
列 伝
中村家の家臣。
横田騒動では柳生一族の剣豪、柳生宗章を討ち取ったとしている。
伯耆志 前城主中村氏の条
(略)横田が表門の討手は一忠の物頭、依藤半左衛門、藤江蔵人、戸川丹波、矢野助之進、室田與左衛門。大勢を卒して馳向う。(略)斯くて柳生が下知にて内より鉄砲を打出すこと雨の如くなれば寄手乱足になる所を柳生長柄の鎗を中より切て短くし大勢の中に駈け入り当るを幸に突倒す。其働誠に一人当千なり。因て一忠人を以て罪は免ずべし。味方に参り候えと申入れられけれども此度仔細有て村詮が味方致し候。今に至て志を易え候わじと対て終に大勢と戦い討死す。藤井助兵衛、其首を取る。一説には矢野、室田二人に討ると云えり。(略)
1603年12月16日(慶長8年11月14日)
横田村詮殺害の報せを受けた横田主馬助は横田家遺臣200余名と飯山の砦(内膳丸とも)に立て籠った。
1603年12月17日(慶長8年11月15日)
出雲国月山富田城から堀尾吉晴の援軍が大龍山總泉寺へ到着し、増援の到着を以て中村方の総攻撃が開始される。
横田方の立て籠もる書院責口(表門)を攻略するため、中村方の大将のひとりに家老の藤井蔵人が部隊の指揮にあたっていることから藤井蔵人の一族、或いは部将として表門周辺での戦闘に加わっていたと考えられる。(伯耆志)
伯耆志では柳生宗章の首を取ったとするが、実際に討ち取ったのは矢野助之進、室田與左衛門の両名としている。
家老の藤井蔵人に縁のある人物とすれば手柄の譲渡が行われた可能性が考えられる。
一説には十文字の槍を獲物に柳生宗章と何合か渡り合った末に討ち取ったとする伝承もあるが、柳生宗章と矢野助之進の決斗の場面と酷似している。
騒動後は柳生宗章を討ったことを大きく誇って回ったとしている。