武将列伝帖
よしだ ちくぜんのかみ みつとも
吉田筑前守光倫
【氏】不明【姓】不明【名】吉田【通称】筑前守【諱】光倫
別 名
吉田筑後守(よしだ ちくごのかみ)
出 身
不明
官 途
筑前守、筑後守、肥後守
所 属
尼子氏
生 年
不明
没 年
不明
- 列 伝 -
出雲吉田家の一族で尼子氏に仕えた武将。
1524年(大永4年)、大永の五月崩れによって伯耆国を尼子氏が掌握すると吉田左京亮と共に西伯耆三郡の軍政を任されている。
1540年(天文9年)、尼子晴久による芸州攻めには参加せず、伯耆国尾高城に在番し主力留守中の伯耆国内の不測の事態に備えた。
1546年(天文15年)、武田国信と南条宗勝ら因伯連合軍7,000騎が伯耆国へと侵攻。
この時、尼子晴久に対して早急の援軍を要請している。
同年6月、橋津川の戦いでは2,000騎を率いて南条宗勝、小森久綱の率いる2,000騎と橋津川を挟んで対陣。
橋上で南条宗勝の部隊と戦闘となり、先に橋上から味方の兵を退かせると南条方が渡橋の最中に橋桁を落とし300騎余りを水没させている。(出雲私史)
戦況には異説もあり、橋が崩れたのは両軍が殺到したため重量に耐えられず損壊したとして両軍に被害があったとしている。(陰徳太平記)
出雲私史では官途を筑後守、伯耆民談記では筑後守と肥後守が混同している。
官途を筑後守とする場合、時期は不明だが播磨国刀田の太子堂の合戦で討死とある。