伯耆国 河村郡
かわぐちじょう
河口城
所在地
鳥取県東伯郡湯梨浜町大字園(小字西前、小字要害、小字竪岩)、鳥取県東伯郡湯梨浜町大字泊
城 名
河口城(かわぐちじょう)
別 名
川口城 (かわぐちじょう)…羽衣石南條記での記述。
戸磨利城(とまりじょう)…陰徳太平記での記述。
泊城(とまりじょう)…因伯古城跡図志での記述。
泊ノ要害(とまりのようがい)…花庵行実録での記述。
築城主
山名時氏
築城年
1337年(建武4年/延元2年)
1340年(暦応3年)
廃城年
1600年(慶長5年)
1615年(元和元年)
形 態
丘城、海城
遺 構
郭跡、土塁、空堀、切岸、土橋、石垣、堀切、虎口
現 状
公園(河口城跡ふれあいの森)、竹林、雑木林、畑地
備 考
湯梨浜町指定史跡 昭和49年1月23日指定(泊村指定史跡として)
縄張図
河口城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編))
(吉田浅雄1998「伯耆山名一族の城館遺跡」『山名』第四号 山名史料調査会より引用)※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)
陰徳太平記(明治44年5月 犬山仙之助)
因伯古城跡図志(文政元年)
因伯叢書 羽衣石南條記(大正4年10月 因伯叢書発行所 佐伯元吉)
泊村誌(平成元年5月 泊村誌編さん委員会)
羽合町史 前篇(昭和42年10月 羽合町史編さん委員会)
角川日本地名大辞典31鳥取県(昭和57年12月 角川日本地名大辞典編纂委員会)
泊・河口城のこと(湯梨浜町教育委員会発行リーフレット)
年 表
1337年
建武4年/延元2年
山名時氏が伯耆国の守護職に任ぜられた頃、各地の要衝に築城されたうちの一城が始まりとされる。
1524年
大永4年
1540年
天文9年
9月10日、尼子氏の芸州攻めにより伯耆国内が手薄になると武田国信ら率いる7,000余騎が伯耆国へ侵入し当城を攻撃する。
1546年
天文15年
7月18日、武田国信と南条宗勝ら因伯連合軍7,000騎が元城主の山名久氏を引き入れ伯耆国馬ノ山へ進軍とする説もある。
この頃を記した文献では内容の一部に重複が見られることから1540年(天文9年)~1546年(天文15年)頃の東伯耆は支配勢力が目まぐるしく変わり、山名久氏が家城を一時回復するも逆襲を受け再び尼子方が領有している。
陰徳太平記では武田山城守、南條己下6,000余騎。(巻第十一 尼子国久伯州発向之事)
1562年
永禄5年
毛利氏によって伯耆国から尼子氏が駆逐されると再び山名久氏が居城としている。
1563年
永禄6年
5月、南条宗勝の依頼を受け、南条宗皓の三十三回忌を執り行うため但馬円通寺の花庵が伯耆光孝寺へ訪れた際、泊の港を利用している。(花庵行実録 泊の要害のこと 大智院宗派之口面書)
1580年
天正8年
12月2日、南条元続らが3,000余騎の襲撃を受ける。
城主の山名久氏は150騎で籠城戦に徹し南条方の軍勢を撤兵させている。(陰徳太平記 巻第六十三 伯州戸磨利合戦)
1581年
天正9年
9月、織田方の水軍を率いた松井康之と南条方の軍勢により城下と港湾が焼討に遭い、泊浦に停泊していた毛利方の軍船65艘が沈められている。(信長公記、細川家文書)
1584年~1585年
天正12年~天正13年
1600年
慶長5年
関ヶ原の戦いで西軍に与した南条氏が改易された頃、麓の長清寺を含め付近一帯の山野と共に焼亡したと云われる。(泊村誌)
1615年
元和元年
概 略
JR山陰本線の泊駅から北東に見える丘陵の中腹に所在する。
城域のほぼ全域が多目的保安林「河口城跡ふれあいの森」として整備されており、遊歩道の敷設や平場の多くに植樹、植林が見受けられる。
築城時期に関しては諸説あり、山名時氏が守護職に任じられた以降の代々守護職を世襲した伯耆山名氏による段階的な築城が推測されている。
湯梨浜町教育委員会作成のリーフレットでは1337年(建武4年/延元2年)、山名時氏が伯耆国の守護職に任じられると国内の軍事、交通の要衝であった泊周辺に堅城を築き、伯耆国の東端で因幡国との国境に近い要地であった泊にも築城されると城主には代々一族を充てたとしている。(郷土史リーフレット 泊・河口城のこと)
城郭の規模にも諸説あり、泊村誌では東西40m、南北60m、標高を68m、鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)では標高80m、比高20m、周囲の郭は後世に畑地へ利用されたとしている。
日本海側に面した北西側は断崖絶壁(法面は崩落防止による改変を受け現状のような段々な地形になっている可能性が指摘されている)、南側は後亀山へ尾根続きとなるが主郭と尾根を巨大な空堀で遮断している。
空堀は主郭の東から南西にかけて取り囲むような配置となっており陰徳太平記では堀切としている。
主郭は長手が北西~南東に40m、幅が15m程、北西には一文字、南東にはコの字の土塁が配され切岸の一部に石垣跡も見える。
南東部の一段高い櫓台と推定される石垣造りの高台は神祠跡による造作が推測されているが元来より直下の切岸、空堀に対する防衛施設が始まりと見え、傍らには建物の礎石ではなく礫石と思われる多くの河原石が散布している。
海路は泊浦の港湾、陸路は山下に山陰道が通ることから陸海の交通の要衝であり城下は駅や宿場で栄えたと伝える。
因伯の国境に位置することから監視のための軍事施設として特に重要視されたことが伺える。
小字名から城主の居館の推定地として2ヶ所が考えられる。(泊村誌 泊村小字全図より)
字要害、字西前の西側に「東屋敷」「西屋敷」「南屋敷」「北屋敷」、字竪岩の北東側に「屋敷」「ニノ屋敷」「三ノ屋敷」の小字が見える。
当城が因幡方面に対して意識したとするなら字要害、字西前の西側に見える4つの屋敷の小字周辺が適当と推測され、字竪岩の北東側に見える3つの屋敷の小字は泊湊の管理に関わった人物との関係が考えられそうである。
因伯古城跡図志 泊村古城跡
「泊村古城跡 山上ノ平地長二十二間 横八間位 表通段引有 畑トナリ石垣ノ形有 高三十間位ニテ小山也 竹木ナシ 後山高シ 是ニ木有 山上ニ水少シ出ル 表海近クシテ七八町沖ヘ大船着」
「表申酉」
「南 以所山後堀切リ」
因伯古城跡図志では大手を申酉(西~南西)方面とし、南に堀切の添書と石垣の図示、北は泊浦の湊に続く連郭と石垣の図示、谷を隔てた東の尾根の麓には長清寺が図示されており、泊浦からの物資は北側の連郭を利用し引き上げたことが推測される。
伯耆民談記 河村郡古城之部 後亀山之事
泊村の後にある山をいふなり。其形さながら亀の頭の如し今切通の道あり。軍国の用に開きたる由、昔は此村繁昌なりしに此切通出来せしより。以来次第次第に衰落して今は只だ一つの漁村となる由言ひ伝ふ。
南の空堀(堀切)を越えた尾根続きの山は後亀山として伯耆民談記に記述が見える。
伯耆民談記 河村郡古城之部 河口城之事
久津賀の庄泊村に在り。山名の一族山名刑部太輔久氏累代の家城なりしが、彼の大永の五月崩れに尼子経久が為に没落して因州の方へ漂泊せり。其時より一国悉く尼子の領と成って西三郡は吉田筑後守同弟左京亮、尾高、八橋の両城に居て軍政を司る。尼子紀伊守国久は羽衣石に在城して東三郡を領し、当城には国久の二男式部太輔誠久居城せり。然るに天文九年九月尼子晴久大軍を擁し毛利元就を追討の為芸州へ出発せしに依て当国の諸将悉く芸州へ出陣し尾高の吉田のみ国に残り居れり。然るに大永五月崩れの時敗北せし諸浪人南条宗元を始め、此処に乗じて旧領を取返さんと談り合せ因州の屋形山名氏へ加勢を乞い、武田山城守を大将として七千余人の人数にて、同十日当国へ切り入り、先手なれば一番に当城を攻立つる。尼子誠久も芸州へ出陣し留守居の士、加藤兵蔵、福原彌吉等百余人にて楯籠りしが寄手猛勢なる故防ぎ戦ふ事叶はず両人討死して落城に及びけり。寄手凱歌を唱へ、山名久氏なればやがて居住し、夫より永く当城に居り後には南条家の旗下となり山名の苗字を断ち城地を号して河口刑部太輔と名乗りける。然るに刑部太輔始めは小鷹の行松入道が聟なりしが行松滅亡の後は杉原播磨守盛重が娘を娶る。然るに天正七年南条勘兵衛上方に一味し杉原と仇敵と成る。是に依て刑部太輔も夫人を杉原へ送り返へし、南条に無二の志を顕し忠節を尽くしけり。慶長五年羽衣石滅亡の時、当城も同じく没落して浪人の身と成りけり。
1524年(大永4年)5月、大永の五月崩れでは尼子方の軍勢に攻められ落城。この頃の城主を山名久氏としている。
家城の落城により山名久氏らは流浪の身となり因州方面へと落ち延び、新たな城主として尼子誠久が入城している。(伯耆民談記)
1540年(天文9年)9月10日、毛利元就追討のため尼子氏による芸州攻めが敢行されるが、伯耆国内の戦力の殆どを出張させたため、手薄となった隙を突かれ武田山城守(武田国信)率いる7,000余騎が伯耆国へ侵入した際は真っ先に当城が攻撃を受けている。
留守居の城番であった加藤兵蔵と福原彌吉は討死し落城。山名久氏が家城へ復帰している。(伯耆民談記)
1546年7月18日(天文15年6月)、武田国信と南条宗勝ら因伯連合軍7,000騎が元城主山名久氏を引き入れ伯耆国馬ノ山へ進軍とする説もある。
この頃を記した文献では内容の一部に重複が見られることから1540年(天文9年)~1546年(天文15年)頃の東伯耆は支配勢力が目まぐるしく変わっていたと考えられ、山名久氏が家城を一時回復するも逆襲を受け再び尼子方が領有している。
陰徳太平記では武田山城守、南条己下6,000余騎としている。(陰徳太平記巻第十一 尼子国久伯州発向之事)
1562年(永禄5年)、毛利氏によって伯耆国から尼子氏が駆逐されると再び山名久氏が居城としている。
花庵行実録 泊の要害のこと(大智院宗派之口面書)
永禄癸亥年五月十六日棟豊三年、於宗鏡寺拈香同廿三日ヨリ伯州下向也(略)宵の四ツ時ニ伯州泊ノ要害下ゑ着岸也(略)
1563年(永禄6年)5月、南条宗勝の依頼を受け、父、南条宗皓の三十三回忌を執り行うため但馬円通寺の花庵が伯耆光孝寺へ訪れた際、海路で泊の港へ訪れた記述が見える。
1580年(天正8年)12月2日、南条元続らが3,000余騎を率いて襲来。
城主であった山名久氏は150騎で籠城戦に徹し南条方の軍勢を撤兵させている。(陰徳太平記 巻第六十三 伯州戸磨利合戦)
信長公記
(略)鹿野と伯耆の間にこれある敵城へ南条は押し詰め(略)
織田信長黒印状(長岡忠興宛 細川家文書)
(略)伯州面に至って深々と相働き泊城へ押し入り。数多く討ち取り。悉く放火せしめ敵船六十五艘を切り捨つるの由、尤以て比類なきの働き、神妙に候(略) 九月十六日 長岡兵部大輔殿
1581年(天正9年)9月、織田方の水軍を率いた松井康之(長岡藤孝の臣)と南条方の軍勢により城下と港湾は焼討に遭い泊浦に停泊していた毛利方の軍船65艘が沈められている。
この損害により伯耆側から因幡国鳥取城への兵站は完全に封鎖されることとなった。(信長公記、細川家文書)
1584年~1585年(天正12年~天正13年)、京芸和睦により毛利氏と南条氏の領地が確定すると当地は南条領(4万石)と決定されている。
この頃に山名久氏は妻であった杉原盛重の娘を毛利方へ送り返しており、姻戚関係を解消し南条方へ与している。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍に与した南条氏が改易された頃、麓の長清寺を含め付近一帯の山野と共に焼亡したと云われる。(泊村誌)
1615年(元和元年)、大坂夏の陣で山名久氏が自刃すると子の山名久吉と母(杉原盛重の娘)は共に当城を脱出したとある。(河口家系図)
杉原盛重の娘が再び当城へ戻っていることなど不自然な状況もあるが、杉原家の改易による影響も僅かに考えられることから系図を鵜呑みにすると1600年(慶長5年)の焼亡による廃城ではなく、この頃まで当城が存在していた可能性もある。
写 真
2019年11月30日、2020年1月11日