所 属
尼子
よみがな
人物名
あまご しきぶのしょう さねひさ
尼子式部少輔誠久
別 名
あまご しきぶのたいふ さねひさ
尼子式部大輔誠久
官途名に因む
別 名
あまご しきぶのたいふ さねひさ
尼子式部太輔誠久
伯耆民談記に見えるが大輔の誤記か太傅を意味するか不明
別 名
たが さねひさ
多賀誠久
出雲国の国人、多賀氏へ婿入りしたことに因む
官 途
式部少輔、式部大輔
出身地
出雲国
生 年
1510年(永正7年)
没 年
1554年11月30日(天文23年11月1日)
氏
源
姓
朝臣
諱
誠久
列 伝
尼子国久の嫡男。
父と並び新宮党内でも特に武勇に優れた人物のひとりとされる。
1524年(大永4年)
大永の五月崩れにより尼子氏が伯耆国内を掌握した頃、尼子国久は伯耆国羽衣石城を居城に東伯耆三郡を管轄する。
この頃、伯耆国河口城を任せられ居城にしたとしている。(伯耆民談記 河村郡古城之部 河口城之事)
1540年(天文9年)
毛利元就追討のため芸州へ軍役する。
居城であった河口城には留守役として加藤兵蔵と福原彌吉を城番に留め置いている。
1540年10月9日(天文9年9月10日)
芸州攻略では伯耆国尾高城を除く伯耆国内の戦力の殆どを出張させたことから手薄となった隙を狙われ、武田山城守率いる7,000余騎により河口城が攻撃を受けている。
留守居の城番であった加藤兵蔵と福原彌吉は討死し落城、山名久氏が家城を取り戻している。(伯耆民談記 河村郡古城之部 河口城之事)
1554年11月30日(天文23年11月1日)
尼子晴久の正室であった尼子国久の娘が亡くなる。
正室の死去を契機に尼子晴久による粛清を受け尼子国久らと共に殺害される。
一説には尼子晴久の命を受けた大西十兵衛、立原備前守による暗殺とも伝える。