所 属
尼子
よみがな
人物名
ふくやま とうさぶろう
福山藤三郎
官 途
不詳
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1565年11月2日(永禄8年10月10日)
氏
不詳
姓
不詳
諱
不詳
列 伝
福山綱信の養子。
陰徳太平記 巻第三十九 福山肥後守討死之事
(略)福山肥後守は去年、故主吉田左京が敵、三村家親が伯州不動之岳に居けるを打損じ残念とも口惜共云限なく如何もして彼を討て故主の恩をも報じ弔いともなさばやと十二時中心頭を労しけるが此比は家親伯耆の法性寺に居ければ平野又右衛門と合伴い陣を二隊に分て法性寺へこそ押寄せけれ。(略)福山は空しく矢に当て死なんより、一人成共敵を打てこそ死なんとて、関の聲を案内に走り蒐り走り蒐り戦けるが十方より射る矢に喉を射られて伏ければ猶子の福山藤三郎、敵に首を掻れじと走り懸て首押切、深き泥中に押入、吾身は敵の中へ走り入数人切伏、其身も痛手数ヶ所負ければ一揆の手に掛らじと自害して、とある田の畔に伏居たり。
伯耆志 鴨部村の条 城跡の項
(略)永禄八年十月、福山肥後守、平野又右衛門来て当城下に火を放つ。家親出て戦わず平野は其術を察して引退きしに福山血気に任せて相動き日暮に至りて(原本此所に城跡の図あり。之を略す)引返す所を家親大勢を卒して之を追う。福山返えし合せて戦えば三村方闇夜に乗じて案内後に拠りて前後左右より散々に撃て掛る福山進退を失いて唯敵兵の聲を便りに走り寄て戦いけるが遂に討死したりけり。猶子の福山藤三郎首を切て泥中に埋めて其身も自害せり。旦日首を索むれとも見えず其腕を切て他の首と共に吉川氏の出雲洗合の陣に送りけり(陰徳太平記の趣を取る)。
1565年11月2日(永禄8年10月10日)
福山綱信、平野又右衛門らと三村家親の居城であった伯耆国法勝寺城を襲撃する。
法勝寺城での戦いで福山綱信が討死した際は敵衆の勝鬨の方へと駆け付け、首級が敵の手に渡ることがないよう福山綱信の首を刎ね地中深くに埋めている。
福山綱信の首を埋め隠した後は再度敵陣へと突入し数人を斬り伏すが、この時に深手を負い一揆衆の手にかかることを良しとせず自刃している。
後に田の畔で三体の遺体が見つかり、この遺体の首と福山綱信の腕が洗合の本陣(出雲国洗合城)へと送られている。(陰徳太平記 巻第三十九 福山肥後守討死之事)