武将列伝帖

かがわ またざえもん はるつぐ

香川又佐衛門春継

【氏】不明【姓】不明【名】香川【通称】又佐衛門【諱】春継

別 名

出 身

不明

官 途

兵部大輔

所 属

毛利氏⇒吉川氏

生 年

1545年(天文14年)

没 年

1619年(元和5年)

 

- 列 伝 -

香川光景の次男。安芸国日野山城にて吉川元長と共に育ち、後に吉川元長の家老となる。

 

1568年(永禄11年)、毛利元就の命を受け美作国高田城三浦貞盛を攻め、これを攻め陥とした。

美作国高田城攻略後は豊前方面へ転じ大友氏の勢力と戦っている。

三浦家との合戦に於いて初めて戦場での名前が見えるが、これより以前の1564年(永禄7年)の伯耆国不動ヶ嶽城の戦い(防衛戦及び攻略戦)、1565年(永禄8年)の伯耆国八橋城攻略戦、同年の月山富田城の戦いに於いて、いずれも父、香川光景が参加していることから兄の香川広景と共に対尼子戦で従軍していたものと考えられる。

伯耆民談記では1565年(永禄8年)9月3日、父の香川光景、兄の香川広景と共に伯耆国八橋城攻略戦に参加していることが記載される。

 

1569年(永禄12年)、尼子勝久山中幸盛ら率いる尼子残党が蜂起すると出雲国へと侵入し出雲国月山富田城を包囲している。

同年、この動きに呼応した三浦氏尼子氏の残党は備前国の宇喜多直家と結託し美作国へ侵入している。

 

毛利氏は援軍として香川光景を派遣。兄の香川広景や叔父の香川勝雄らと共に城将・安達信泰が守備する高田城に入城し三浦・尼子・宇喜多の連合軍を迎え撃っている。

高田城には尼子方の降将が多く内応者が続出したこともあり旗色の悪い戦であったが、敵将の玉串監物を一騎打ちにて討ち取るなどその勇猛さで友軍を鼓舞した。(高田城の戦い)

援軍の活躍もあり高田城は一時落城を免れたが、後に城を放棄し退却すると三浦貞広に奪われている。

 

この頃より毛利氏の家臣ではなく吉川氏に仕えるようになったとされる。

これには吉川元春らの強い要望があったとも云われ、諱には吉川元春の偏諱を賜ったと伝わる。

 

1582年(天正10年)、伯耆国佐陀城にて謀反した杉原景盛討伐の総大将に吉川元春から推されている。

この時、総大将を引き受ける代わりに粟屋就光を副官として付けるよう願い出ている。

討伐戦では粟屋就光らと共に佐陀城、伯耆国尾高城の攻略で戦功を挙げている。

 

1586年(天正14年)、豊臣秀吉の九州征伐には吉川軍に従軍し九州へ出陣。

高橋元種の籠もる豊前国香春嶽城を攻撃、粟屋就光らと共に三ノ岳を攻略、高橋元種の降伏にも貢献した。

 

1591年(天正19年)、吉川広家が出雲国月山富田城を居城とする要請を豊臣秀吉に取り成した旨の書状を黒田孝高(如水)から送られており、吉川家の中でも重用されていたことが伺える。

 

1600年(慶長5年)9月12日の祖式長好に宛てられた吉川広家直筆の書状では、伯耆国米子城の普請について万事抜かりないようにと山縣春佳と連名で伝えている。(吉川広家書状 慶長5年9月12日)

同年、関ヶ原の戦いの後は周防国岩国へ移封となった吉川広家に従い吉川家の家老となった。

移封先では家老として今田経高らと共に岩国領主の吉川氏を支えたとある。

 

1619年(元和5年)死去。家督は嫡男の香川家景へ受け継がれた。

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