所 属

毛利

毛利

吉川

よみがな

人物名

かがわ またざえもん はるつぐ

香川又佐衛門春継

官 途

兵部大輔

出身地

不詳

生 年

1545年(天文14年)

没 年

1619年(元和5年)

不詳

不詳

春継

列 伝

香川光景の次男。

安芸国日野山城にて吉川元長と共に育ち、後に吉川元長の家老となる。

 

1565年9月26日(永禄8年9月3日)

父の香川光景、兄の香川広景と共に伯耆国八橋城の攻略戦に参加している。(伯耆民談記)

 

1568年(永禄11年)

毛利元就の命を受け美作国高田城三浦貞盛を攻め陥落させ、高田城の攻略後は豊前方面へ転じ大友氏の勢力と戦う。

三浦家との合戦で初めて名が見えるとするが、1565年(永禄8年)の八橋城での戦いに従軍していることから前年の伯耆国不動ヶ嶽城の戦いから同年の出雲国月山富田城の戦いまで、いずれも父、香川光景が参加していることから兄の香川広景と共に一連の対尼子戦線に従軍していたものと考えられる。

 

1569年(永禄12年)

尼子勝久山中幸盛ら率いる尼子残党が蜂起すると出雲国へと侵入し月山富田城を包囲している。

同年、この動きに呼応した三浦氏尼子氏の残党は備前国の宇喜多直家と結託し美作国へ侵入している。

毛利氏は援軍として香川光景を派遣しており、兄の香川広景や叔父の香川勝雄らと共に城将、安達信泰が守備する高田城に入城し三浦氏尼子氏宇喜多氏の連合軍を迎え撃っている。

高田城には尼子方の降将が多く内応者が続出したこともあり旗色の悪い戦であったが、敵将の玉串監物を一騎打ちで討ち取るなどその勇猛さで友軍を鼓舞した。(高田城の戦い)

援軍の活躍もあり高田城は一時落城を免れたが、後に城を放棄し退却すると三浦貞広に奪われている。

この頃より毛利氏の家臣ではなく吉川氏に仕えるようになったとされる。

これは吉川元春らの強い要望に添ったものとされ、諱には吉川元春の偏諱を賜ったと伝わる。

 

1582年(天正10年)

杉原家の家督相続争いに続き、織田方への謀反が露顕したことから杉原景盛討伐の総大将に吉川元春から推されている。

総大将を引き受ける条件として粟屋就光を副官に付けるよう願い出ており、討伐戦では粟屋就光らと伯耆国佐陀城、伯耆国尾高城の攻略で戦功を挙げている。

 

1586年(天正14年)

豊臣秀吉の九州征伐には吉川軍に従軍し九州へ出陣する。

高橋元種の籠もる豊前国香春嶽城を攻撃し粟屋就光らと三ノ岳を攻略、高橋元種の降伏にも貢献した。

 

1591年(天正19年)

吉川広家月山富田城を居城としたいとする要請を豊臣秀吉に取り成した旨の書状を黒田孝高(如水)から送られており、吉川家の中でも重用されていたことが伺える。

 

1600年10月18日(慶長5年9月12日付)

祖式長好に宛てられた吉川広家直筆の書状では伯耆国米子城の普請について万事抜かりないようにと山縣春佳と連名で伝えている。(吉川広家書状 慶長5年9月12日付)

同年、関ヶ原の戦いの後は周防国岩国へ移封となった吉川広家に従い吉川家の家老となった。

移封先では家老として今田経高らと共に岩国領主の吉川氏を支えたとある。

 

1619年(元和5年)

死去。家督は嫡男の香川家景へ受け継がれた。

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