武将列伝帖

やまな ろくろう ゆきさだ

山名六郎之定

【氏】【姓】朝臣【名】山名【通称】六郎【諱】之定

別 名

出 身

不明

官 途

不明

所 属

伯耆山名氏

生 年

不明

没 年

不明

 

- 列 伝 -

文明年間、尼子清定による伯耆国侵攻に伴う合戦のひとつ、境松合戦に敗れた伯耆山名方の軍勢をまとめ、伯耆国米子城飯山城)に於いて防衛戦の指揮を采ったとする人物。

山名家の系図には見えない人物だが一説には通称を六郎とする。

 

1470年(文明2年)、京極氏から出雲国を奪った尼子清定が続けて伯耆国への侵攻を開始。

伯耆国の国人衆は抗戦するが高守山城の戦い、美保関合戦、境松合戦など主要な戦闘で連敗を喫し米子城飯山城)まで戦線を下げている。(出雲私史)

 

1471年(文明3年)8月、境松合戦で尼子清定の軍勢に敗れた伯耆山名方の将兵が米子城飯山城)へ退却すると籠城し防衛戦の指揮を采った。(京極政高感状(佐々木家文書))

 

1472年(文明4年)、朴翁菩提のため福万(米子)を寺領として瑞仙寺へ寄進している。(瑞仙寺文書)

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