武将列伝帖

あまご またしろう きよさだ

尼子又四郎清定

【氏】【姓】朝臣【名】尼子【通称】又四郎【諱】清定

別 名

尼子清貞(あまご きよさだ)

出 身

不明

官 途

刑部少輔

所 属

尼子氏

生 年

1410年(応永17年)

没 年

1488年2月12日(長享元年12月21日)

 

- 列 伝 -

出雲守護代、尼子持久の嫡男。後に自身も出雲守護代となる。

佐々木氏傍流の京極氏分家尼子氏の3代目。主君・京極持清より偏諱を授かり諱を清定と称した。

妻は出雲国仁多郡で製鉄技術を保持した土豪、真木朝親の娘であり尼子経久の母とされる。

 

出雲大社(杵築大社)と日御碕社の紛争においては京極家の家臣団を率いて紛争を調停し解決している。

 

1467年(応仁元年)頃、父、尼子持久から出雲守護代を受け継いだとされる。

 

同年から始まる応仁の乱では京極家当主、京極持清が東軍の武将として京都や近江方面での戦に参加するため出雲国を全面的に任されることになるが、これが京極氏の支配を急速に衰えさせることとなった。

 

1468年(応仁2年)7月、安来の国人で十神山城主・松田備前守が伯耆山名氏の支援を受け京極氏に反旗を翻すと富田庄堺村、出雲国月山富田城に攻め寄せるがこれを撃退する。

この戦いで三沢氏の代官、福頼十郎左衛門を討ち取ったが出雲郷(あだかえ)の春日城攻略には至らなかった。

敗戦により多くの被官を失うが玉造の土豪、湯氏をはじめ出雲、隠岐、伯耆の有力国人を百余名討ち取っている。

同年8月、松田氏を退けた勢いに乗じて十神山城を攻めるが落城までには至らず周辺の岩坂城外波城八幡城宮尾城など諸城を陥とすに留まった。

この戦果については直に十神山城を陥すと見せかけつつも真の狙いは周辺諸城を攻略し包囲網を完成することにあったとされる。

同年9月、馬田城春日城を攻略。湯郷(ゆのごう)岩屋城からの糧道を断ち、いよいよ十神山城に立て籠もる松田備前守山名六郎らを攻め、これを陥落させた。

十神山城を陥とし勢いに乗った尼子方は美保関へ出陣、松田氏を支援した伯耆山名氏の軍勢を駆逐している。

 

1469年(文明元年)、出雲西方(大東方面:現雲南市)への侵略を進めていたが横田藤ケ瀬城三沢為信が危機感を抱いている。

 

1470年(文明2年)、三沢為信が仁多、大原、能義、八束など各郡に点在していた反尼子勢力を煽り大規模な国一揆が起こった。

この一揆には手持ちの兵力だけでは鎮圧ができず、守護、京極持清の守護代権限を行使することによって鎮圧している。

同年、伯耆山名氏の軍が出雲国領内へ侵攻を始めるが高守山城の戦い(難波城の戦い)にて撃退。美保関合戦、境松合戦でも勝利し伯耆方の軍勢を出伯国境付近の伯耆国米子城飯山城)まで押し戻した。

伯耆国からの侵攻を防いだ一連の戦功に対し京極持清から能義郡奉行職、幕府御料所である美保関代官職を与えられている。

 

1474年(文明6年)頃、関税など公用銭の上納を怠るなど独立の動きを見せ始めている。

一説には頻発する土一揆を平定することがままならず、永続的に一揆が続いた情勢であったとも云われ、公用銭の上納ができなかったのも満足な徴税ができなかったためとも推測されている。

 

1475年(文明7年)、長男、尼子経久を上洛させ、これまでの所領を守護、京極政経に確認を取っているが尼子経久はそのまま人質として京に留め置かれた。

 

1476年(文明8年)、能義郡で土一揆が起こると一揆衆が月山富田城まで迫るが陣頭指揮を采り一揆を鎮圧している。

この一揆は農民が蜂起した土一揆とされるが、松田三河守との美保関代官職を巡る領有問題に端を発していることから、不利となった松田三河守が起こした国一揆が本質とされる。

一揆の鎮圧後は戦功として京極政経より感状が発せられている。

 

松田氏の扇動による能義郡一揆が収束した前後、表舞台から姿を消し隠居したとされる。

これにも諸説あり、此度の能義郡土一揆では月山富田城を守るだけで精一杯の状態であり、その後も一揆が頻発したことから隠居ではなく罷免され表舞台から姿を消したとも云われる。

 

1488年2月12日(長享元年12月21日)、死没。法号は洞光寺殿華山常金大居士。

 

『雲陽軍実記』には「牢人の身となり、漂泊流浪のうちに病死す」とも記述される。

上 へ

戻 る