武 将 列 伝 帖

やまな じぶのたいふ ゆきはる

山名治部大輔之玄

【氏】【姓】朝臣【名】山名【通称】治部大輔【諱】之玄

別 名

山名之秀(やまな ゆきひで)

出 身

不明

官 途

治部大輔

所 属

伯耆山名氏⇒毛利氏⇒尼子再興軍

生 年

不明

没 年

1570年(元亀元年)

 

武 将 列 伝

第一次尼子再興戦に於いて伯耆国米子城飯山城)の城主とされる人物。

伯耆民談記では山名治部大輔之秀と記述される。

 

1569年(永禄12年)、尼子再興の軍を興した山中幸盛の調略を受け毛利方から離反。

吉川元春の攻撃により出雲国末次城が落城すると嶋根(島根)から敗走してきた尼子勝久山中幸盛米子城飯山城)に迎え入れ、尼子残党と結託し米子城飯山城)を奪取する。

 

1570年(元亀元年)、毛利方の武将、吉川元春に攻められ米子城飯山城)は落城し、城中で自害したとある。

離反を焚き付けた山中幸盛尼子勝久らは残党をまとめ早々に播州へ遁走している。(伯耆民談記:飯之山永禄合戦の事)

 

郷土史には反乱を尼子残党の主導とし、積極的な関与はしていないような推論も見える。

最期については諸説あり、山中幸盛らに見捨てられ落城を覚悟した時点で自刃した説、毛利方が米子城飯山城)を回復した後に謀反の罪を咎められ、裁かれた後に自害した説などが見える。

 

尼子再興戦に於ける米子城飯山城)の城主に関しては各資料で重複や混同と考えられる記述が見える。

1562年(永禄5年)に毛利方へ組し米子城飯山城)を回復した山名秀之を始め、山名之益山名之茲山名久秀などが確認できる。

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