武将列伝帖

やまな じぶのたいふ ゆきしげ

山名治部大夫之茲

【氏】【姓】朝臣【名】山名【通称】治部大夫【諱】之茲

別 名

出 身

不明

官 途

治部大輔

所 属

伯耆山名氏⇒尼子再興軍

生 年

不明

没 年

1563年(永禄6年)

 

- 列 伝 -

山名姓を称するが出自は不詳。永禄年間、伯耆国米子城飯山城)の城主とされる。

当時の情勢から杉原盛重の配下とし、伯耆国河口城の城主、山名久氏の一族と推測される。(伯耆志)

 

1562年(永禄5年)、毛利方が米子城飯山城)を回復し、これに与した山名秀之が城主に任じられている。

この頃、与力として米子城飯山城)へ入城していたと考えられる。

 

1563年(永禄6年)6月10日、尼子勝久山中幸盛と密約を結び隠岐判官と共に毛利方より離反。

毛利方の武将、吉川元春の攻撃により出雲国末次城が落城すると米子城飯山城)へ敗残兵を収容したとある。

末次城を攻略した吉川元春は続けて伯州へと侵攻し、米子城飯山城)の所在する湊山を包囲している。

毛利方の包囲に対して籠城戦を構えるが、隠岐判官の部隊が応戦するも真っ先に敗れ隠岐へと遁走してしまったことから城中で自刃したとある。

 

伯耆民談記では1570年(元亀元年)6月10日の出来事とするが伯耆志ではこれを誤りとしている。

伯耆志では(元亀)元年ではなく六年としており、尼子再興戦の状況から1563年(永禄6年)の出来事と読み取れる。

尼子再興戦に於ける米子城飯山城)の調略については年代、城主、経緯について諸説存在する。

上 へ

戻 る