伯耆国 久米郡
うつぶきじょう なんじょうやしき
打吹城 南条屋敷
所在地
鳥取県倉吉市仲ノ町
城 名
打吹城 南条屋敷(うつぶきじょう なんじょうやしき)
別 名
備前屋敷(びぜんやしき)…南条元信の官途、備前守に由来する呼称。
築城主
築城年
1562年(永禄5年)
廃城年
1615年(元和元年)…一国一城令による廃城とする説。
1617年(元和3年)…山田直時の退去に伴う廃止とする説。
1632年(寛永9年)…倉吉陣屋の完成に伴う廃止とする説。
形 態
居館
遺 構
郭跡(腰郭・帯郭)※、石垣※、枡形※
※ 鎮霊神社の造営、或いは打吹公園の造成に伴う改変の可能性あり。
※ 鎮霊神社の造営に伴う追加造作物の可能性あり。
※ 石垣は鎮霊神社の造営に伴う可能性もあるが、枡形の形状については往時からの遺構の可能性も考えられる。
現 状
打吹公園、鎮魂神社
備 考
史跡指定なし
縄張図
打吹城略測図より南条屋敷部抜粋(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
因伯文庫 伯耆民談記(昭和35年3月 萩原直正校註)
新修 倉吉市史 第二巻 中・近世編(平成7年3月 倉吉市史編集委員会)
年 表
1562年
永禄5年
1609年
慶長14年
中村家の改易に伴い久米郡及び河村郡は天領地となり、江戸幕府からは山田直時が代官として派遣される。
山田直時は打吹山の山麓の居館に居住したとされる。
1615年
慶長20年
1614年
慶長19年
安房国の里見忠義が倉吉3万石を与えられ入封となるが、倉吉城下は引き続き山田直時が治める。
1617年
元和3年
山田直時の後任に池田光政の家臣であった伊木忠貞が当地の知行を命じられる。
伊木忠貞も古城の麓に居住したと伝えていることから、当館が一国一城令による廃城の影響を受けず存続した可能性も考えられる。
1632年
寛永9年
伯耆国倉吉陣屋の完成に伴い当館は役目を終えたと推測される。
1906年
明治39年
8月、東伯郡招魂社が創建される。
1912年
明治45年
6月、湊町大火災で社殿が全焼したため仮社殿を建立し慰霊祭を続ける。
1935年
昭和10年
現在の社殿が再建される。
1948年
昭和23年
鎮霊神社へと改称する。
概 略
打吹公園内に鎮座する鎮霊神社(しずみたまじんじゃ)の周辺に南条元信の居館が所在したと伝える。
伯耆民談記では伯耆国打吹城の本丸(山頂)から北へ70間(約128メートル)下がった位置に所在し、東西31間(約56メートル)、南北22間(約26メートル)の規模を有したとあり、現在の鎮霊神社が鎮座する平坦地の広さと概ね合致する。
主郭の切岸は一部が石垣造りとなっているが、居館に由来する往古の造作とするか、鎮霊神社の造営或いは打吹公園の整備による造作か何れも不明。
西側には喰い違い虎口が見え、土塁と石垣を併せた枡形を形成している。
枡形の石垣(主郭西側切岸面)も普請年代を不詳とするが、土塁部分は古くからの地形とされることから往時より枡形虎口を有した居館であったと推測される。
伯耆民談記 巻之第十五 久米郡古城之部 一、同城(倉吉)地理の項
伯耆民談記 巻之第十五 久米郡古城之部 一、同城(倉吉)地理の項
(略)二の丸を備前丸と号す。(略)此丸を備前丸と称する事は、南条伯耆守元続領主たる時、叔父備前守元信、始めは八橋の城主たりしが後当城に居住せり。又、其後河村郡田後の城に移りしとなり。されば備前守居住せし丸なる故、遂に廓の号となれり。
伯耆民談記では当屋敷に居住した人物を南条元信としている。
南条元信が打吹城の城番として置かれた際、打吹城備前丸の普請のために建造され利用した屋敷であったとしている。(伯耆民談記)
南条元信が打吹城の城番を任ぜられるのは南条氏が尼子方から伯耆国羽衣石城を奪還して暫らく後の出来事であり、1562年(永禄5年)には当屋敷から普請が始まり、続けて打吹城備前丸も普請が始められたと推測される。
この頃の打吹城の主郭は現在の山頂部ではなく打吹城備前丸、或いは同じく城番として置かれた山田越中守の居城とする打吹城越中丸であったと推定される。
1565年(永禄8年)9月、尼子方の吉田源四郎が立て籠もる伯耆国八橋城が毛利方の攻撃により陥落する。
毛利方は三村家親に八橋城の管理を任せたとしているが、東郷町誌では奪還直後に南条宗勝へと預けられ、南条元信らが城番に置かれたとしている。
東郷町誌の説を採る場合、南条元信の八橋城移転後の当屋敷の詳細は不明。
1579年(天正7年)7月9日、南条元続、南条元清の織田方への離反が露見したため、毛利方の吉川元春、吉川元氏、吉川経言は出雲国月山富田城から出陣、羽衣石城に立て籠もる南条方へ対する攻城戦の策の一環として羽衣石城下の稲薙を目的に進軍している。(陰徳太平記 巻之六十一 伯州長郷田合戦の事)
同年7月21日、毛利方の吉川元長の攻撃を受け同日卯刻(午前6時頃)、伯耆国田後城が落城とある。(伯耆民談記)
南条元信は田後城の城番であったが落城に際して嫡男の南条元周と共に羽衣石城へと撤退している。
同月29日、撤退先の羽衣石城も落城したとある。
1580年(天正8年)、吉川元春が打吹城へと入り城郭を復興とある。当館についての詳細は不明。
1584年~1585年(天正12年~天正13年)に京芸和睦が成立し、中国国分による在地領主の領地確定により八橋城は南条領となり、南条元信らが城番を任されたとする。
伯耆民談記 巻之第十四 久米郡古城之部 一、倉吉城再興の事の項
(略)同(慶長)十四年、中村家断絶の後、当所暫らく御料と成り。山田五郎兵衛御代官として、東都より来住す。其後、天下一統の命によりて、当城も石垣を崩し、堀を埋め廃城となれり。元和三年、光政公当国御管領の時、重臣伊木長門当所を知行し、古城の麓に居住し、寛永九年、御当家御入国の後は荒尾志摩嵩就へ此処を賜り、子孫代々に相伝せり。
1609年(慶長14年)、中村家の改易に伴い久米郡及び河村郡は天領地となる。
江戸幕府からは山田直時が代官として派遣されており、久米郡及び河村郡の仕置きを任せられている。
一説には打吹山の麓の居館に居住したと伝える。
1614年(慶長19年)、安房国の里見忠義が倉吉3万石を与えられ入封となるが実際の石高は数千石に留まり、倉吉城下など主要な地域は引き続き山田直時が治める。
1615年(慶長20年)、一国一城令が発せられ、同年(元和元年)より打吹城の廃城作業が進められる。
廃城の指揮は山田直時が采ることとなり、同時期に伯耆国松崎城の破城も指揮していたとされる。
打吹城の破城に於いては石垣が崩され、堀も埋められるなど徹底的な破却を伝えている。
埋められたとする堀の位置は不明とするが、山麓の城館や城下町の惣構えに近い場所に所在したと推測されることから、当館も往時から石垣を持っていたとすれば打吹城と併せて何らかの破壊措置を受けた可能性が考えられる。
一方、当館は元来より城主の居館であったことから打吹城廃城の指揮を采った山田直時や使用人の居館として存続した可能性が高いとも推測される。
1617年(元和3年)、池田光政の家臣、伊木忠貞に当地の知行が命じられる。
伊木忠貞についても古城の麓に居住したと伝えていることから、当館が一国一城令の後も引き続き存続した可能性を伺わせる。
1632年(寛永9年)、伯耆国倉吉陣屋が完成する。
政庁及び代官屋敷が移転したことで当館は役目を終えたと推測される。
1906年(明治39年)8月、東伯郡招魂社が創建される。
石垣は東伯郡招魂社の建立による造作の可能性を残す。
1912年(明治45年)6月、湊町大火災に遭い社殿が全焼したため、仮社殿を建立し慰霊祭を続ける。
1935年(昭和10年)、現在の社殿を再建し、1948年(昭和23年)に鎮霊神社へと改称する。
写 真
2022年10月30日、2023年5月20日