所 属

毛利

村上

よみがな

人物名

むらかみ たろう さえもんのじょう

村上太郎左衛門尉

山田家文書、宮本家文書での記述

 

別 名

むらかみ たざえもんのじょう

村上太左衛門尉

平佐就之書状で「郎」が缼字のためか

官 途

左衛門尉(山田家文書、宮本家文書)

出身地

不詳(伯耆国汗入郡か)

生 年

不詳

没 年

不詳

菅原

朝臣

不詳

列 伝

伯耆国汗入郡で淀江周辺に基盤を持った在地国人衆、村上氏の一族。

往時は伯耆山名氏に仕え伯州衆の中でも上位に序列される一族であったが、永禄年間には毛利方に与し兵糧の運搬や兵糧留など後方支援に功績がある。

 

山田家文書(萩藩閥閲録 毛利元就、吉川元春、小早川隆景連署書状)

某許外城兵糧焼候由候間、従杵築明日三百俵至淀江着上候。村上太郎左衛門尉所へ早々人を被出彼付置候而可被請取候。但、若此舟依順風遅候てはと存、銀子十枚持せ進之候。折節不有相候而少分候。銀子をも追々持せ可進之候。兵粮番衆も於此砌者いか程の限者有間敷候。(略)七月廿四日 末近一郎右衛門尉殿 山田民部丞殿

 

1563年8月12日(永禄6年7月24日)

伯耆国河岡城の外城に備蓄されていた糧秣が尼子方部隊の襲撃を受け焼失する。

毛利元就吉川元春小早川隆景は連署にて末近宗久山田満重に宛て、早急な補給の旨を伝えている。

補給物資は杵築(出雲国)から送り出され、淀江の港で受け取るよう指示を受けている。

淀江港へは米俵300俵、天候(風向き)により舟が遅れた場合の保険として現地で糧秣を買い上げるための資金(銀子10枚)も手配されている。

 

宮本家文書(平佐就之書状)

一、御兵粮米之儀、百俵約束被申候。然者五十俵御請取候哉。相残今五十俵之儀心得申候。軈而申付可被進之候。

一、其表兵粮留之儀、堅固被仰付之由尤肝要候雖然、爰許号家人、奉行衆無一通等候え共、米売買候哉。不可然儀候。就其制札被進之候。此加判之衆一通無之候者、兵粮之儀御出し有間敷候為、其制札調進之候以此旨可被仰付候。

一、安木湯原方(略)恐々謹言 二月十日 就之(花押)

(切封ウワ書)

「(墨引き)村上太(缼字)左衛門尉殿 御返報 平佐源七郎就之」

 

1564年3月22日(永禄7年2月10日)

平佐就之より毛利方の奉行人の証書を持たない者への米の売買を禁止する兵糧留が指示される。(平佐就之書状 宮本家文書(東京大学史料編纂所影写本) )

併せて米俵100俵の内50俵が引き渡され、残りも順次手配する旨が記載され、軍事物資の輸送、管理に於いて毛利方より信頼を置かれていたことが伺える。

 

一部の文書の写しでは缼字部分を略したためか「村上太左衛門尉」とする記述も見られる。(毛利元就、吉川元春、小早川隆景連署書状(萩藩閥閲録 巻31 山田吉兵衛))

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