伯耆国 会見郡
せきしゅうふじょう
石州府城
所在地
鳥取県米子市石州府(小字城の内)
城 名
石州府城(せきしゅうふじょう)
別 名
石州府城(せきしょじょう)…現在の地名に因む呼称。
河岡城(かわおかじょう)…伯耆河岡城の推定地のひとつとすることに因む。
築城主
不詳
築城年
不詳
廃城年
不詳
形 態
丘城
遺 構
郭跡、土塁、空堀、切岸、石垣、石塁、虎口
現 状
山林
備 考
史跡指定なし
縄張図
米子市石州府遺跡群発掘調査報告書Ⅰ国営大山山麓開拓建設事業に伴う埋蔵文化財試掘調査 調査区域トレンチ設定図 ※米子市埋蔵文化財センター提供
城 主
不詳
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
萩藩閥閲録
石州府古墳群発掘調査報告書(平成元年3月 米子市教育委員会)
米子市埋蔵文化財地図(平成6年3月 米子市教育委員会)
米子市石州府遺跡群発掘調査報告書Ⅰ国営大山山麓開拓建設事業に伴う埋蔵文化財試掘調査(昭和58年3月 米子市教育委員会)
米子市石州府遺跡群発掘調査報告書Ⅱ国営大山山麓開拓建設事業・県道米子環状線道路改良工事に伴う埋蔵文化財試掘調査(昭和59年3月 米子市教育委員会)
角川日本地名大辞典 31鳥取県(昭和57年12月 角川日本地名大辞典編纂委員会)
概 略
石州府第1遺跡の西側、段丘寄りに土塁と空堀、切岸を備えた中世城館跡が所在する。
周辺には多くの円墳、大型円墳、前方後円墳など古墳群が所在していたが工場建設によりほぼ全てが破壊されている。
伯耆志 石州府村の条
村名の義詳ならず。村の南一丁許に城河内と云ふ地ありて空湟の跡あり。石窟数多あり。古戦場と見へたり。当時の武士の名に依れる村名なるべし。北方に又寺の内と云ふ田土の字あり。由来詳ならず。
伯耆志では字「城河内」に所在したとされるが、現在の小字は「城の内」となっている。
現地の切岸端部には石塁が良好な状態で残っているが後世の田畑の造作とも考えられる。
不確定ながら南側と西側に虎口状の地形と木戸など門跡か番所と考えられそうな石塁と郭跡の形跡も見える。
1983年(昭和58年)以降の周辺における発掘調査報告書では当城の場所が伯耆国河岡城と図示されている。
※1989年(昭和64年・平成元年)3月発行の石州府古墳群発掘調査報告書では「石州府城跡」と図示。
※角川日本地名大辞典で確認できる字名は以下の通り「城ヶ内」「溝ヶ内」「屋敷」「石州府(せきしょ)」「観光寺」
字「寺の内」については具足山妙本寺が幾度か移転しているため慶長年間頃に此の地へ移った事に由来する可能性が考えられる。
元々は前方後円墳がであったが長い年月を経て森へと還り河岡山へなったとしている。
具足山妙本寺の寺誌による寺伝については年号など不正確な部分が多く、創作と考えられる記述も見えることから真偽の疑わしい点もある。
※角川日本地名大辞典の字名に見える「観光寺」の可能性も。
南には伯耆国岸本要害があり、段丘端部には空堀、土塁、切岸によって囲まれた同様の構造を持つ地形が連なり、現在は宅地化などにより消失しているが北側にも同様に空堀、土塁で囲まれた城館跡と推定される遺構が連なっていたとされる。
当城の北端から岸本要害までを繋いだ城域を想定すると南北は長大な規模となり、特に西側への防御に主眼を置いた縄張りが考えられることから対尼子戦で登場する「河岡城」や付随する外城とは当城のことではないかとも考えられる。
※西側の切岸状の地形は伯耆志にある1550年(天文19年)8月の日野川氾濫による流路変更によって出来た可能性も考えられ、川掘として運用されたことが推測される。
1563年(永禄6年)頃には毛利方から海上輸送により鉄砲衆が伯耆へ派遣されているが携行された鉄砲の数は僅かとされる。
同年7月3日の尼子方による河岡城襲撃では毛利方の一条市介が銃撃される記述が見えることから尼子方も鉄砲を持っていたことが伺える。
この記述が伯耆国内の戦場で初めて鉄砲が用いられたとされるが、当城を河岡城と求める場合に地形を見る限り、それなりの高低差を持った丘陵であるため火縄銃を主戦力とする効果的な運用は難しい。
実際に使われるとすれば平坦地における迎撃戦での使用が考えられる。
一方の河岡城は一面を平坦地と推定されていることから篭城戦であっても城に対して鉄砲による射撃が行われたことは考えやすい。
写 真
2015年8月29日、2017年12月23日